5月31日の朝日新聞の記事で江原素六について初めて知った。

江原素六

私の住んでいた白井市では伊藤隼人が市川・船橋戦争で負傷した新政府軍の九州の藩兵を助けたと聞いている。しかし、それ以上の情報は知らない。

そもそも市川・船橋戦争とは何だ。幕末の1868年、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争の一つ。

記事を要約すると、

「旧幕府軍の大隊を率いた江原素六は船橋市山野地区辺りで官軍との戦いにより瀕死の重傷を負った。山野村の名主らの介護で命を取り留めた素六はその後、静岡・沼津に逃れた。

そして実業家、教育者として頭角を現し、東洋英和学校や麻布中学校等を創立。国会議員としても功績を残した」

船橋市山野地区

 

麻布中学校

 

東洋英和学校

 沼津市明治資料館の資料を見て驚いた。

1.沼津の教育に尽力

沼津市で沼津兵学校、集成舎(現在の沼津市立第一小学校)、沼津中学校、駿東高等女学校(現在の沼津西高校)などを創った。

2.沼津の産業に尽力

愛鷹山で牛や羊を飼う西洋式の牧畜を始め、牛乳やバター、チーズ、羊毛等を生産した。

また茶を栽培し、それをアメリカへ輸出する事業を興しました。

国有地の愛鷹山の土地を地元の農民に取りも戻した。

3.政治家として活躍

駿東郡(現在の沼津市や御殿場市、裾野市などを含む広い地域)の郡長を務め、行政の仕事もしました。明治23年(1890)に衆議院議員の選挙に当選。 

明治45年(1912)には衆議院議員から貴族院議員。沼津市の政治家として活躍した。

4.キリスト教布教に尽力

明治10年(1877)に洗礼うけ、素六はキリスト教の信者に。

現在の沼津教会は素六らが最初の信者としてつくった物。東京キリスト教青年会(YMCA)の理事長を務め活躍した。

5.弱い立場の人々の援助に尽力

  明治時代の終わりころから大正時代にかけて、女性・子ども・病人など、社会の中で弱い立場にいる人々や、中国人留学生等、日本に虐げられたアジアの国の人々のために、救護活動を行った。

 等、色々な活動をしていた。

 江原素六の活躍から分かるように、明治政府の混乱が旧江戸幕府の幕臣たちによって立て直されたことを考えると、明治維新が江戸幕府を支えていた有能な人材を失ったのではないだろうか。