1972年2月に札幌で開催された冬季オリンピック!
その競技種目の中で一番注目され大活躍したのが宮の森シャンツェで行われた70m級ジャンプでした。 日本人選手が金銀銅のメダルを独占、「日の丸飛行隊」と呼ばれておりましたね。
その中でも圧倒的な大差で金メダルを獲得したのは、笠谷幸生選手でした・・残念ながら先月4月23日に帰らぬ人となってしまいました。
虚血性心不全、享年80才 謹んで心よりお悔やみ申し上げます。
テレマーク着地が世界一美しいと言われておりました。
左から、金野昭次さん(銀)、笠谷幸生さん(金)、青地清二さん(銅)
1998年の長野五輪での団体ラージヒルでも日本人選手(原田氏、岡部氏、船木氏、斎藤氏)は大活躍して金メダルを獲得し非常に感動しましたが、私の中ではやはり地元で開催された1972年(昭和47年)の札幌五輪は一生忘れられない。当時はノーマルヒルやラージヒルとは呼ばず70m級(宮の森シャンツェ)、90m級(大倉山シャンツェ)でしたし、リフトなんかなくてスキーを担いで階段を昇っておりました。足に負担が掛かりシンドイよね~だけど条件は皆んな同じですからね。
まだ少年だったワタクシだったけど、実際に現地に見に行っているし、青地選手には握手もしてもらえました・・それほど上背はなかったけど男っぽくてカッコ良かったという印象です。
地下鉄南北線が開通して、街の中心部ではトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」が盛んに流れておりました。この曲は札幌オリンピックに向けて前年の8月に発売されました。今も大好きな曲の一つです。
ジャネット・リンが愛くるしくて人気者になりましたね~~
又、都会化が進み、人口は100万人を超えて外国人の観光客も一気に増えました。東北最大都市の仙台市が確かまだ55万人弱でした。
ちなみにワタクシ、前年に開催されたプレオリンピックも見に行っております。外国人だらけで非常に驚いたものです。こんなにたくさんの外国人を見たのは初めてでしたからね。
笠谷幸生さんは、仁木町出身で余市高校、明治大、余市のニッカウヰスキー所属でした。非常に人当たりが良くて面倒見の良い方だったと聞いています。
後年には紫綬褒章を受賞されたり文化功労賞も受けられました。
なお、90m級は1本目は106m位飛んでこの時点で2位、2本目に大きな期待がかかったが、横からの突風に煽られ85mの失敗ジャンプで残念ながら結果的に7位に終わってしまった。91mを飛んでいたら金メダルだったらしいのでとても残念に思いました。周りからの期待によるプレッシャーは半端なかったんじゃないでしょうか。前夜は全然寝られなかったようですから・・。
金野昭次さんは、3人の中では一番年下で小柄で160ちょっとしかなかったけど、当時、切り込み隊長として、飛行はいつも安定していたという印象があります。北海高校から日本大学に進み、就職先は北海道拓殖銀行でした。
しかし、2019年に下咽頭がんでお亡くなりになっております。この時は全然知りませんでした。
青地清二さんは、1942年生まれの一番年上で、兄貴的存在でした。もっと前の世界大会の90m級で優勝したことがあったように思います。この大会での70m級は2本目が失敗ジャンプでストンと落ちる可能性もある中、最後までなんとか堪えて3位に入ることが出来た時はホッとしたものです。
小樽緑陵高(後の小樽商業高)から明治大学に進み、雪印乳業の所属でした。(同じ雪印乳業所属となった後輩の原田雅彦氏には色々とアドバイスを送っていたようですね)
そんな彼も2008年に胃がんでお亡くなりになっております。当時、新聞に掲載されていてとても驚いたものです・・確か65才くらいでした。
ついに、日の丸飛行隊のメンバー全員が鬼籍に入られたことになります。思い出深く楽しかった昭和時代がどんどん遠くなっていくのは寂しい・・・
この写真は宮の森シャンツェ! 下から見たらそれほど高く見えないのだが・・・
「ザ・ベストテン」で松山千春がついに生中継で出演した場所でもあり、今週の第1位「季節の中で」を生ギター一本で歌唱しました。
ちなみに90mの大倉山シャンツェの大ジャンプ台が、札幌テレビ塔の展望台から西側の山方向を見ると真正面に見えます。宮の森ジャンプ台は北向きなので見えません。