◆殿(しんがり) (軍事用語) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/殿_(軍事用語)
殿(しんがり)は、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。
後備え(あとぞな え)、殿軍(でんぐん)ともいう。
転じて、隊列や順番の最後尾のこと。

兵法における「殿」
本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。
そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な任務であった。
このため古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた。

例としては、1570年に越前の朝倉義景を攻めた織田信長が義弟である近江の浅井長政の離反によって敵中に孤立した際に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿を引き受けて信長を逃がし、

自らは奮戦の末に命からがら戦場を脱出した件がある(金ヶ崎の戦い)。
これはそれまで織田家中で知恵者としては知られていても武勇の士とは見られていなかった藤吉郎の家中での評価を変え、織田家の重臣としての地位を築くきっかけとなったといわれる


しかし、最近の資料調査によると金ヶ崎では池田勝正が殿軍を率いて朝倉軍の追撃を撃退し、木下藤吉郎は殿軍の一武将として功をあげ織田信長から褒美を得たことがわかっている。

織田武将を表現した、「木綿藤吉(秀吉)、米五郎左(丹羽長秀)、掛かれ柴田(勝家)に退き佐久間(信盛)」という言葉があり、佐久間信盛は殿を巧くこなせる人物であったという



兵法以外での「殿」
前述の通り「殿」は元々兵法における言葉だが、ここから転じて戦闘の場以外でも使用されることがある。スポーツなどの競走が発生する場でしばしば用いられる。

代表的なのが競馬用語として用いられるもので、カタカナでシンガリとも表記されることがしばしばある。競馬の世界では「殿(シンガリ)」の言葉単体では競走馬のレース中の位置取

りが最後方になることの意味で用いられている。
また、競走の結果が最下位になることを示す「シンガリ負け」や、最後の直線で最後方の位置から追い込みをかけることを示す「殿一気」[1]など、他の語とともに用いられることもある


また例えば選手入場のように隊列を組んで行進している際に最後尾を行進する人物を「殿を務めている」と表現する事もある。

関連項目

陣形
後退
撤退
捨て奸
釣り野伏せ
脚質
 
◆朝倉 義景(あさくら よしかげ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝倉義景
戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。

◆浅井 長政(あざい[注釈 3] ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅井長政
浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れ

て自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた
 
◆信長包囲網(のぶながほういもう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/信長包囲網
戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことを言う。


 
◆月代(さかやき)
成人した男子が冠または烏帽子の下にあたる額ぎわの頭髪を半月形に丸く剃った部分。中世の武士は鉄製の兜をかぶったが,頭が蒸れるので,兜の頂上に通気孔を開けて,その穴の真下

の髪を剃った。空気が抜けるので,逆息 (さかいき) といい,その音便とするものや,逆明 (さかあき) の転じたものとする説がある。戦国時代には,月代を剃っていることが勇敢さの

印にもなり,武家の男子が成人になると兜をかぶらないでも,月代を剃るようになった。江戸時代になると,一般民衆の間にも行われ,明治4 (1871) 年の散髪奨励の頃まで続いた。 (→

元服 )

◆さかやき(月代) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/さかやき
さかやき(月代)とは、江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた(抜き上げた)部分を指す。さかやきを剃った髪型のこ

とは、野郎頭[1]や半髪頭と表現される。

概要
兜を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習とされる。平時は側頭部および後頭部の髪をまとめて髷を結った。なお、現代日本において時代劇等で一般男性の髷としてなじ

みとなっているのは銀杏髷であり、髷が小さい丁髷ではない。さかやきをそり、髷を解いた髪型を「童髪(わらわがみ)」といい、「大童(おおわらわ)」の語源となっている。また、

兜を被った際に頭が蒸れるのを抑える目的は「弁髪」に共通している。

「サカヤキ」の語源、また「月代」の用字の起源は諸説ある。一説にさかやきはサカイキの転訛であるという。戦場で兜をかぶると気が逆さに上るから、そのイキを抜くためであるとい

う伊勢貞丈の説が広く認められている。

歴史や
『玉葉』安元2年7月8日の条に、「自件簾中、時忠(平時忠)卿指出首、(其鬢不正、月代太見苦、面色殊損)」とあり、平安時代末期、行われていたことが分かる。

『太平記』巻5に、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」とあり、絵巻物などと照らし合わせると、鎌倉時代、室町

時代にさかやきが行われていたと分かる。当時は、兜による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、日常に戻った時は総髪となった。

戦国時代になると、さかやきが日常においても行われるようになった。それまでは毛抜きで頭髪を抜いてさかやきを作るのが主流であったが、頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを

訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる。

沖縄の古謡集『おもろさうし』のうち、1609年の島津氏による琉球出兵を歌ったものでは、薩摩兵を「まへぼじ(前坊主)」と揶揄しており、さかやきを作っていた事がわかる。

江戸時代になると、一定の風俗となった。公卿を除く、一般すなわち武家、平民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。蟄居や閉門の処分期間中や病気で床につ

いている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。さかやきの形は侠客、中間、小者は盆の

窪まであり、四角のさかやきは相撲から起こり、その広いものを唐犬額といった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風といった。また若さをアピールする一種のフ

ァッションとして、さかやきやもみあげを藍で蒼く見せるという風習も流行した。

明治の断髪令まで行われた。

脚注[編集]
^ 大辞林「野郎頭」
やろうあたま -やらうあたま 【野郎頭】
前髪を剃(そ)り,月代(さかやき)をした頭。江戸時代の一般の成年男子の髪形。

 
◆一本ずつ毛を抜く血まみれの苦行……なぜ武士はチョンマゲ・月代スタイルだったのか?
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2017年3月24日

幕末、日本にやってきた異国人はチョンマゲ姿の日本男児を見て、こう驚いたそうです。
「うわっ、なんだ!? あいつら頭の上にピストルを乗っけていやがるっ!」

ご丁寧に、頭頂部分だけきれいに剃った月代(さかやき)にしちゃって、その上に棒状の黒いピストルが乗っているんですから、たしかにアレは現代の私達から見ても珍妙と言わざるを

得ません。
しかし、なぜあのような奇抜なヘアスタイルが誕生したのでしょう?

毛が多いと不都合が起きる、最も原始的な理由
鎌倉幕府が滅び、南北朝時代を経て応仁の乱が起きた室町時代。
それまでの幕府守護体制や荘園公領制がことごとく崩壊し、日本は戦乱の世へと突入していきます。
旧勢力は没落し、新勢力が台頭する「下克上」の世で日本各地に戦国大名が現れると、武士だけでなく農民や商人などからも合戦の参加者が現れ、みんなが刀を持ち鎧兜を揃えるように

なります。


当たり前ですが、合戦では兜をかぶって戦います。
平清盛や源頼朝、足利尊氏の時代も当然そうでした。

しかし、戦国時代になると新兵器・鉄砲が出現したため、その攻撃から身を守るためには兜の形が頭全体をすっぽりと包まなければならず、長い髪を束ねて兜をかぶると、ある問題が生

じたのです。
頭が痒い、痒い、痒すぎる!
ゆえに頭頂部は剃らざるを得なかった。
高校球児が坊主頭にするのと理屈は同じでしょうか。違うかな。

一本一本抜きました それも木製の毛抜で
ところで皆さん、そんなハゲ部分の月代ですが、どうやって整えたかご想像つきます?

刀で剃った?

ブブー!

専用の剃刀があった?

ブブッ、ブブー!

答えはなんと、木製の毛抜で一本一本抜いたのです!
なんという恐ろしい所業。
これは江戸初期の風物を記した『慶長見聞集』にも、その様子が「黒血流れて物すさまじ」と記されています。
昔の武士は毎日激痛に耐え、血だらけになりながら頭頂の毛を抜いていたのです…。そりゃ切腹なんて文化が生まれてくるワケですよね。

ただ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた頃からはカミソリで優美な形に整えられるようになり、日本男子達もやっと血だらけのゾンビ状態から解放されます。

こうした苦行が背景にあったからでしょうか。合戦を前提とした月代という髪型は、「いつでも主君のために戦える!」という意思表示でもありました。
月代を剃らないということは主君をないがしろにし、自分は武士ではないと言っているようなものだったのです。

それこそが、江戸時代にも丁髷(ちょんまげ)と月代が続いた理由であります。
 
◆月代(さかやき)について
http://ncode.syosetu.com/n2494bo/23/
月代は、難読漢字でもあり、読みの問題にも出てきます。 本日は、特徴的な武士の髪型の、月代さかやきについてのお話です。 
月代とは、ご存じの通り、頭頂部の髪を剃った部分を指します。 江戸時代になると、武士はおしゃれになり、蝋と油で固めた髷を月代の上に固定する独特の髪型に発展しました。
月代の始まりは何時ごろで、何の為に行われたのでしょうか?
公家:九条兼実の日記『玉葉』の安元2年(1176)の記述に、「自件簾中、時忠卿指出首、其鬢不正、月代太見苦、面色殊損」とあります。 この意味は、平家の公卿:平時忠(清盛の

義弟)が宮中に出仕した時の月代がとても見苦しくて恥をかいたという事です。つまり、平安末期には、武家では一般的であり、公卿になっても平氏は月代を剃っていた事が判ります。

◆時代劇に登場する月代を伸ばした浪人は本当は町を歩けない!?


時代劇にはしばしば浪人と称する、髪をボサボサに伸ばした落ちぶれた武士がしばしば登場します。
また、年配の方であれば「素浪人 花山大吉」という近衛十四郎(松方弘樹の父)が主役の時代劇を覚えている方も多いことでしょう。
焼津の半次とのコミカルなやり取りや半次を怒る時の「バカタレが~!」というセリフがなんとも面白く、大人気のテレビドラマでした。

花山大吉は、悪人をバッタバッタと切り捨てるめっぽう強い浪人であったにもかかわらず「おから」が大好きで、緊張したり驚いたりすると「しゃっくり」が止まらなくなるというなん

ともお茶目な浪人でもありました。

時代劇では、これらの浪人が江戸の町を何事もなく歩いている場面がしばしば登場しますが、実際に月代をボサボサに伸ばした浪人が堂々と江戸の町を歩くというのは考えられないこと

でした。
 
◆時代劇の問題。月代(さかやき)はいつごろどうしてできたの? 町人思案 ...
http://blog.q-q.jp/200808/article_1.html
に関する詳細記事。(Powered by BIGLOBEウェブリブログ)○○○○○☆歴史☆○ 問題:月代(さかやき)をご存じでしょうか。
江戸時代以前の髪形の特徴的な部分です。 口絵のようにチョンマゲを結っている人は、額から頭頂部にかけて剃っていることが多い ようです。
これが月代です。□おなじチョンマゲを結っていても、お相撲さんは月代を剃っ ていません。
日本相撲協会広報部に問い合わせたところ、頭から風邪を引くと困るので 剃っていないとの回答でした。もちろん嘘です。

◆【 どのちょんまげが好き? 】男っぷりをあげる!江戸の人気ヘアコレクション
https://rekijin.com/?p=13093
戦国の世が終わり、平和で文化的な生活を享受できる江戸時代に入ると、町民の中でもオシャレを楽しむ人が多くなってきました。
江戸の町で人気のヘアスタイルをご紹介します!

スタンダードながらも自由度の高いヘア「丁髷(ちょんまげ)」

「江戸の基本スタイル・ちょんまげ」
https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/05/800px-Portrait_of_a_man_of_noble_birth_with_a_book-196x300.jpg
江戸っ子ヘアは髷で個性を!
江戸っ子が絶対に譲ることができないオシャレポイントは、やはり「髷(まげ)」。特に頭頂部から前頭部の「月代(さかやき)」を剃りあげる髷がオーソドックスで、一番人気です。

元々は、合戦時に被る兜で頭頂部が蒸れるのを防ぐ目的で生み出された髪形であるとはされていますが、戦の心配が無くなった江戸では、髷の太さや角度などに変化を出し個性を表現し

ていきました。頻繁に剃ったり抜いたりしなければならないなど、手間が掛かる髪型ではありますが、それでもお手入れを欠かさないのが嗜みです。

気軽なヘアで色気も演出「総髪」
「坂本龍馬も総髪。浪人にも多かったヘアスタイル」
https://rekijin.com/wp-content/uploads/2016/05/800px-Portrait_of_a_man_of_noble_birth_with_a_book-196x300.jpg

月代を剃り上げずに髷を結うのが「総髪(そうはつ)」であり、女性の場合は同じ漢字でも「そうがみ」と読みます。月代の手入れが不要なので、手間も散髪代も掛からないお手軽ヘア



江戸時代前期は医者や学者などの髪型でしたが、江戸時代後期は一般的な髪型として普及しており、坂本龍馬や徳川慶喜も総髪でした。

 
◆黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田孝高
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といった[注釈 1]が、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)[注釈 4]、あるいは剃髪後の号をとった

黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす

秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された

◆竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に

竹中重利(府内藩初代藩主)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹中重治
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと

見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。
 
◆知らぬ顔の半兵衛(しらぬかおのはんべえ)は、何も知らない振りを装って物事に取り合わぬことを意味する慣用句。「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」のような表現で使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/知らぬ顔の半兵衛

概要
人名である半兵衛とは、戦国時代の武将・竹中重治のこととされる。 織田信長が美濃攻略を行なう際の逸話や豊臣秀吉に仕え始めた頃の逸話などが存在する。

前田利家が信長の意をうけ美濃の武将・竹中重治を調略するために接近。重治の娘・千里と仲良くなって彼女を介して重治に話を持ちかけようとしたが、重治はそれを見抜いており、あ

えて知らぬ顔を決め込んだ。重治は逆にこれを利用し利家から織田方の兵力などの情報を聞きだして、結果、織田勢を撃退してしまった[1]。
羽柴秀吉が竹中重治を伴って出陣。しかし、秀吉は全軍に退却を命じたにもかかわらず、重治だけはこれに従おうとしない。重治は自らの手勢1000人を陣地に残したため、秀吉はこの行

いを責めるが重治は知らぬ顔で平然と軍律違反をやってのけてしまう。しかし、これが幸いとなって重治の残した手勢が勝利に導く要因となったため秀吉は一転してこれを称えた。
脚注
^ 宮武外骨編『日本擬人名辞典』24頁(成光館,1930)
参照出典
『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』、人形浄瑠璃、時代物。全十段。若竹笛躬、近松余七(十返舎一九)、並木千柳合作。寛政元年(1789年)成立。


 
◆黒田官兵衛とは 黒田家とは~名軍師・黒田孝高、黒田如水の詳細紹介
https://senjp.com/kuroda/
 黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)は天文15年11月29日(1546年12月22日)の朝8時頃に、黒田満隆(のちの黒田職隆、小寺職隆)の嫡男として播磨国の姫路で生まれた。
 父・黒田満隆は23歳で、母は、16歳だっとされる岩(お岩)。乳母ではなく、母・お岩によって直接、育てられたとされる。
 
◆5分でわかる 軍師・黒田官兵衛
https://senjp.com/kanbe/
黒田家は、目薬屋で財をなし小寺政職と言う、播磨(姫路)の大名に仕える家老でしたが、黒田官兵衛は、優れた知略と戦術によって、敵対した赤松政秀や毛利勢からの攻撃も、少ない兵

力でも果敢に撃退するなど頭角を現しました。
しかし、織田信長や豊臣秀吉と言った優れた能力と実力の持ち主が姫路に迫ると、敵の武将を素直に評価し、無償で自分の居城・姫路城をそっくり提供するなどして全面協力し、織田信

長の臣下となると竹中半兵衛や蜂須賀小六らと豊臣秀吉の「軍師」として、兵糧攻めや水攻めの立案もし活躍しました。
 
◆竹中半兵衛 ~豊臣秀吉の天下統一を一緒に夢見た名軍師
https://senjp.com/take/
2018年1月1日 - 【GameWith】竹中半兵衛の最新評価や適正クエストです。おすすめのわくわくの実や 適正神殿も紹介しています。竹中半兵衛の最新評価や使い道の参考にどうぞ。
 竹中重治(たけなかしげはる、竹中重虎、竹中半兵衛、たけなかはんべえ)

 1544年9月11日、美濃・斎藤氏の家臣で美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡大野町)の大御堂城・城主・竹中重元の子として、岐阜県池田郡片山にて生まれた。
 母は杉山久左衛門の娘。初名は重虎、のちに重治。
 その後、父・竹中重元は岩手四郡のほか福田、長松、栗原一帯を知行し、6000石となり、菩提山城を築いた。(1558年に菩提山城を築いたとする説もあり)
 弟に竹中重矩がいる。

 
◆竹中半兵衛と黒田官兵衛 ~秀吉が頼りにした軍事参謀
https://odanobu.com/column/12/column12001.html
竹中半兵衛と黒田官兵衛は、豊臣秀吉が羽柴を名乗ってた頃から秀吉を支え続けた軍事参謀(軍師)です。両者の名前を取って「両兵衛(ニ兵衛)」とも呼ばれています。

といっても黒田官兵衛が秀吉に仕えたのが1575年頃で、竹中半兵衛は1579年に36歳で病没しているので、両兵衛が同時期に活躍したのは4年間という短い期間でした。

一緒に活躍した期間は短かったのですが、彼らの間には非常に心に残るエピソードがあります。数ある戦国時代のエピソードの中で個人的に一番好きなエピソードです。文章のボリュー

ムが結構長いですが、宜しくお願いします。
 
◆大返し
◆美濃大返し(みのおおかえし)は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを5時間でか

けぬけた大掛かりな軍団移動のことをいう
https://ja.wikipedia.org/wiki/美濃大返し
移動の理由[
天正11年4月20日(グレゴリオ暦;1583年6月10日)、羽柴秀吉は岐阜城の織田信孝を倒すために美濃にいた。
しかし、大雨で長良川と揖斐川が増水したのが原因で、その川に囲まれている岐阜城を攻められず大垣に留まっていた。
そのとき、秀吉が築城し、中川清秀が守っていた大岩山砦(長浜市余呉町)が敵将の佐久間盛政によって陥落したという情報が届いたのである。
しかし、秀吉は反対に喜び「天下はわしが取った」と言ったという。なおこの時中川清秀は戦死している。

移動の実際
好機到来と考えた秀吉は、賤ヶ岳へと通じる村々に炊き出しと松明の用意を命じ、午後2時ころ大垣を発って、午後7時ころには現地に到着した。秀吉軍の追撃は翌未明より開始された。

戦況への影響
一方、砦を落としたらすぐに退けという大将柴田勝家の命令をやぶり大岩山に野宿していた盛政は、秀吉が木之本に迫っているとの情報に驚き、浮き足だったところに、秀吉によって追

撃がなされ総崩れとなり、柴田全軍の撤退につながった。さらに、越前府中(武生市)にあった勝家与力の前田利家が戦線を離脱し、秀吉軍の先鋒となって柴田勝家本拠の北庄城(福井

県福井市)を囲み、4月24日に落城した。柴田勝家とその妻・お市の方は3人の娘をのこして自害した。

 
◆中国大返し(ちゅうごくおおがえし)または備中大返し(びっちゅうおおがえし)
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国大返し
天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を

討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本

史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。

◆秀吉・官兵衛の中国大返し 10日間で200kmの強行軍の謎を考察してみる
https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/06/02/21841
世の中出来過ぎてアヤシイ話は多々ありますが、”事実は小説より奇なり”というのもまた現実です。
天正十年(1582年)の6月3日から羽柴(豊臣)秀吉が起こした行動、俗に”中国大返し”といわれる超スピード行軍もその一つでしょう。
あまりにスムーズすぎて秀吉黒幕説まで流れるほどですが、実際の動きはどのようなものだったのでしょうか
 
◆秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html
天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取

って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言わ

れることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。

◆豊臣秀吉の『中国大返し』の覚え方(語呂合わせ)はこれだ!
http://rekishizuki.com/archives/544
豊臣秀吉の”天下取りの大勝負”『中国大返し』の覚え方(語呂合わせ)を作ってみました 。この成功により豊臣秀吉は、天下を揺さぶった大事件『本能寺の変』に、いち早く反応 し

た織田家の最初の武将となり、政権奪取のきっかけを得ました。奇跡のような機敏な 行動に、様々な疑惑が出ており、異論百出の歴史的事件のひとつとなりました。
 
◆「中国大返し」を成功させた黒田官兵衛のアメとムチ | 戦国武将の危機管理
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20170216/biz/00m/010/006000c
2017年2月20日 - 天正10(1582)年6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた。その第一 報が備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉のもとに届いたのは翌3日の夜だ

ったと いわれている。 秀吉は、すぐ毛利輝元の使僧、安国寺恵瓊をよび、信長の死を隠した まま講和交渉を急がせ、結局、翌4日、清水宗治が切腹し、戦いは終わった。しかし、 毛

利軍が撤退するまでは秀吉も兵を引くことができず、ようやく、6日になって行動を 開始した。いわゆる「中国大返し」のはじまりである。

◆あらゆる説の歴史を公開!!秀吉による中国大返しの謎に当時の書状などを元に迫ってみます。
http://www.carouselthemusical.com/oogaeshi.html
あらゆる説の歴史を公開!!
本能寺の変の時の情勢
本能寺の変の直前までの状況をまとめてみると、織田家筆頭家老である柴田勝家は北陸の上杉景勝と戦っていましたが、本能寺の変を知ると自分の居城である北ノ庄城に戻っています。

柴田勝家は上杉景勝に備えて北ノ庄城を離れることが出来ませんでした。

関東平定を言われていた滝川一益は、配下に収めていた北条氏政などが反旗を翻して攻めてきて、苦境に陥っていました。

滝川一益は、北条軍に敗れて散々な目にあっています。

四国攻めを考えていた丹羽長秀や織田信孝は本能寺の変の後に兵の一部が逃げ出してしまったとも言われています。

その中で、秀吉だけがなぜ中国大返しを可能にして、明智光秀を討つことが出来たのでしょうか?その謎に迫ってみます。

 
◆きたのしょうじょう【北ノ庄城】

福井県福井市にあった安土桃山時代の平城(ひらじろ)。織田信長は1573年(天正1)に朝倉氏を滅亡させた後、朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)を守護代職に任命して越前国を統治させ

ようとしたが、長俊は1575年(天正3)に一向一揆勢により討ち取られた。この一揆勢を平定したのが信長重臣の柴田勝家で、その功績により越前国北ノ庄を与えられ、同年、自身の縄張

りによる居城の築造を開始した。この勝家の居城が、織田氏の北国支配の拠点となった北ノ庄城である。9層の天守をもった巨大な城であったといわれている。1582年(天正10)、本能寺

の変で信長が死去すると、勝家と明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、両者は翌1583年(天正11)に賎ヶ岳の戦いで激突した。敗れた勝家は北ノ庄城に籠城し、城に

火を放って妻のお市の方(信長妹)とともに自害した。このとき、北ノ庄城の多くが失われたとされるが、その後、青木一矩が同城に封じられたという記録も残っており、どのような経

緯で廃城になったかは明らかでない。関ヶ原の戦い翌年の1601年(慶長6)、福井藩(北ノ庄藩)の初代藩主となった結城秀康(家康二男)は、北ノ庄城の跡地に新たな城(福井城)を築

いた。そのため、勝家時代の北ノ庄城の遺構は現存していない。また、1993年(平成5)、6次にわたる発掘調査が行われ、北ノ庄城の本丸跡といわれてきた柴田神社の境内から石垣と思

われる石が出土したが、城の正確な位置も特定できていない。JR北陸本線福井駅から徒歩約10分(福井城址)。◇北庄城とも記される。


 
◆北ノ庄城 : かつて巨大天守があった織田家筆頭家臣 柴田勝家の居城。
https://akiou.wordpress.com/2013/12/01/echizen_kitanosho-jo/
北ノ庄城 (きたのしょうじょう) は、越前国の戦国大名 朝倉氏の滅亡後に信長から越前48万石を与えられた織田家筆頭家老 柴田勝家によって築城された巨大な近世城郭。ルイスフロイ

スの記録によると、その屋根は丸岡城と同じく総石葺 (福井名産の笏谷石[しゃくだにいし]。青緑色) で、街の規模はあの安土城の2倍はあったという。本能寺後の1582年7月、信長亡き

後の織田家の行く末を決める清須城での会議 (通称 “清洲会議”) で勝家は秀吉と対立。翌1583年3月に直接対決となる「賤ヶ岳の戦い」が発生。敗れた勝家は北ノ庄城まで撤退するも

、秀吉軍に城を包囲されてしまう。追い詰められた勝家は降伏すること無く妻のお市と共に自害、城は焼失した。後に当地に入った結城秀康により跡地を大きく改変し近代城郭(後に福

井城と改名)を築城したため、柴田氏北ノ庄城の遺構は殆ど残っていない (あるいは地中深くに眠る) と言われる。ちなみに結城氏が築いた城も当初は「北ノ庄城」と呼ばれていた (三

代目藩主の頃に福井と改名)。

<基本データ>
●名称: 北ノ庄城 (Wikipedia)
●所在: 福井県福井市 (マップ)
●城主: 柴田勝家
●竣工: 1575年 (天正三年)
●遺構: 石垣、堀跡
 
◆夢のまた夢 豊臣秀吉の辞世 - 浄土真宗親鸞会
http://www.shinrankai.or.jp/jinsei/jin04.htm
もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。 生きる意味も、頑張る力も 消滅してしまうからです。 なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に

多いのです。 本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。 1度 きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」

を 考えてましょう。 ◇第3章◇歴史の証言. 古来、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、 苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、 あま

りにも ...

◆露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
どうゆう意味ですか?


豊臣秀吉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
が言った 最後の言葉として 記載されている。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

露のようにこの世に生まれ落ち、そして露のようにはかなく消えていってしまった
この身であることよ。大阪城で過ごした栄華の日々は、夢の中の夢のようにはかないものだった。

本当に ”人生如夢” ですね。
 
◆人生は夢のまた夢
http://abetoshiro.ti-da.net/e3268251.html
こうして自分の半生を描こうとすると、楽しめる一方で、基本的な抵抗も出てきます。

というのも半生記は、ある側面事実ではありますが、ある側面夢のようなものだからです。


それはいまの現実にも言えます。


 
◆天下は天下の天下なり…徳川家康の遺言 | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3791
2017年4月17日 - 武家の者としては、平清盛、足利義満、豊臣秀吉に次ぐ4人目です。その前後、一時期 小康を取り戻したりもしますが、4月に入ると病は重くなり、家康も自らの死期を

悟って、 様々な遺言をしました。よく知られているのが、以下のものでしょう。 わが命旦夕に迫る といへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理

に かなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、 天下は 一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたり ... 


◆天下(てんか)は一人(いちにん)の天下にあらず乃(すなわ)ち天下の天下なり
《「六韜」文師から》天下は君主一人の専有物ではなく、天下の人々の共有物である。

◆金は天下の回り物
【読み】    かねはてんかのまわりもの
【意味】    金は天下の回り物とは、金は一箇所にとどまるものではなく、常に人から人へ回っているものだから、今はお金が無い人の所にもいつかは回ってくるという励まし。
【金は天下の回り物の解説】
【注釈】    貧富は固定しないということ。
金がない者に対し、今貧しいからといって悲観するな、まじめに働いていればいつか自分のところにも回ってくるだろうという励ましの意味を込めて使う。
「金は天下の回り持ち」「金は世界の回り物」「金は世界の回り持ち」ともいう。
【出典】    -
【注意】    「回り物」を「周り物」と書いたり、「回し者」というのは誤り。
【類義】    金は浮き物/金は湧き物/金銀は回り持ち/宝は国の渡り物/貧乏難儀は時の回り
【対義】    金と子供は片回り/金は片行き
【英語】    Money is a great traveller in the world.(金は世界の旅人である)
Money changes the hands.(金は手を変える)
【用例】    「金は天下の回り物だから、今のピンチをそんなに嘆くことはないよ」
 
◆てんか【天下】
〔「てんが」とも〕
①  天の下に広がる全空間。世界中。 「 -に比類のない名勝」
②  一国全体。国中。また、世の中。世間。 「 -を二分する戦い」 「 -を揺るがす事件」 「夜の幕はとくに切り落されて、-は隅から隅迄明るい/草枕 漱石」
③  一国の政治。また、国家を治める権力。 「 -を取る」
④  力を十分に発揮できる状態。 「若者の-だ」
⑤  (「天下の」の形で用いて)他に並ぶ者がないこと。 「 -の横綱」 「 -の愚か者」
⑥  一国を支配する者。天子・摂関・近世の将軍など。 「その上-の敵になり参らせたる者にてあるに/義経記 6」
⑦  めくりカルタで、あざの札。 「よく〱ぢや-を持つていなるるの/雑俳・削かけ」
⑧  (「とも」「ども」などを伴って)どんなに。いかに。 「 -に目つぶれ、足をれ給へりとも/源氏 玉鬘」

◆「箱根八里」(はこねはちり)は、1901年(明治34年)に発行された「中学唱歌」に初出の唱歌である。鳥居忱(とりいまこと)の作詞、瀧廉太郎の作曲による。

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題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。東海道では大井川とともに難所として知られていた。箱根馬子唄でも「

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる(この唄を指して「箱根八里」と呼ぶこともある)。

歌詞は2連で1番に「昔の箱根」、2番に「いまの箱根」の副題がつけられている。広く知られている歌ではあるものの、李白の漢詩『蜀道難』の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り

込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれている。

歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で王朝の死命を制する要衝として有名であり、『史記』における漢の劉邦と楚の項羽の

攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれ

も箱根の関所のある山道の険しさを、漢籍古典になだたる難所要害にたとえているものである。

曲はヨナ抜き音階で書かれリズムはピョンコ節あり三連符ありでバラエティーに富んでいるが、歌詞にマッチした勇ましい行進曲調のものである。

現在では箱根登山電車小田原駅、箱根湯本駅、強羅駅の発車メロディや、箱根登山ケーブルカー(強羅駅・早雲山駅のみ)・箱根登山バスの車内チャイムとしても使われている。

歌詞[編集]
1.
箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士

2.
箱根の山は天下の岨
蜀の桟道數ならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳え、後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか
一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)
猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
八里の碞根踏み破る
かくこそあるなれ、当時のますらを

※なお原詞では、最後の行は「かくこそありけれ、近時のますらを」である。

スカラーソング[編集]
「箱根八里」は、発表直後から現在まで、様々な替え歌が作られている。その中で一番知られているのは、明治から昭和初期にかけて活躍した演歌師・神長瞭月による「スカラーソング

」である。

スカラーソングは、「箱根八里」のパロディであるとともに、風刺歌で、1番では月給取り(サラリーマン)、2番では「芋書生」の貧しく哀れな窮状を訴えている。

現在、『小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄(四)』に収められている。
 
◆『六韜(りくとう)其の壱:天下者、非一人之天下、乃天下之天下也。』。。^(・◇・)^。。。 記事をクリップするクリップ追加
https://blogs.yahoo.co.jp/atori25/32351864.html?__ysp=5aSp5LiL44Gv5aSp5LiL44Gu44KC44Gu
 兵法書といえば。。だいたい、『孫子(私たちがよく知るのは『魏武注孫子』)』が、まず、頭に浮かぶ

んでしょうけど。。最近、私がはまっている兵法書は、『六韜(りくとう)』ですね。

韜(呉音 : トウ(タウ) 漢音 : トウ(タウ))。。その訓読みは『ゆみぶくろ』。。

つまり、『六韜』と書けば、そのままズバリ六つの弓袋⇒六つの武具を入れる袋という意味を示しており、

実際、この兵法書は「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」の6巻構成なんです。

(すべて、太公望が、周の文王と武王に指南する形態で記されています。)

で、今日は、その中でも、兵法そのものにあまり関係ないかもしれませんが、『天下』について述べてい

る部分を紹介させていただきます(この部分が一番好きなんです♪武韜 発啓 よりの抜粋です)。


【白  文】

天下者、非一人之天下、乃天下之天下也。
取天下者、若逐野獸。
而天下皆有分肉之心。
若同舟而濟。
濟則皆同其利、敗則皆同其害。
然則皆有以啓之、無有閉之也。



【読み下し】

天下は一人の天下に非ず、乃ち天下の天下也。
天下を取る者は野獣を逐うが若し。
而(しかし)て、天下皆肉分つの心有り。
舟を同じくして済(わた)るが若し。
済れば則ち皆其の利を同じくし、敗れば則ち皆其の害を同じくす。
然(しか)らば則ち皆以て之を啓(ひら)く有りて、(以:もって)之を閉ずる有る無き也。



【私  訳】

天下は一人の天下ではない。乃(すなわ)ち、天の下(もと)にある故の天下なのだ。
天下を取るなどという行為は粗暴で、獰猛な獣を逐うようなものである。
そして、天下には皆が切り分けた肉を分かつような心意気がある。
まるで、同じ船に乗り合わせて、大河を渡っていくようなものでもある。
巧く渡り切れれば、皆がその恩恵にあずかることができ、争えば、皆が害を被るのだ。
ならば、即ち、皆でもってこれを啓くことがあってこそ、閉じることはないのである。


※『六韜』武韜 発啓  原文はこちら ⇒ http://ctext.org/liu-tao/fa-qi/zh 

(中國哲學書電子化計劃⇒中文版⇒兵家⇒六韜⇒武韜⇒発啓)

天下を天の下と考えれば。。

日中韓。。ただでさえご近所なのに。。互いに細かいことでぐちゃぐちゃ言うのもどうかと。。^^;。
 
◆徳川家康の仁政(一)
http://rakudo.jp/徳川家康の仁政(一).html
聖人を模範にして、わが身を修養してすべての人を真に安楽の境地にいざなうことこそ、我々の生きるべき道であり、またそれがひいては、自分の幸福をもたらすことになる。家康公こ

そは、聖賢の教えを見習えば平和な世界が築ける、という絶好の手本である。日本のみならず、世界の人達にも家康公の真の偉大さを知って頂きたいものである。

◆てん か [1] 【天下】
〔「てんが」とも〕てん げ 【天下】
①天の下に広がる全空間。世界中。 「 -に比類のない名勝」
②一国全体。国中。また、世の中。世間。 「 -を二分する戦い」 「 -を揺るがす事件」 「夜の幕はとくに切り落されて、-は隅から隅迄明るい/草枕 漱石」
③一国の政治。また、国家を治める権力。 「 -を取る」
④力を十分に発揮できる状態。 「若者の-だ」
⑤(「天下の」の形で用いて)他に並ぶ者がないこと。 「 -の横綱」 「 -の愚か者」
⑥一国を支配する者。天子・摂関・近世の将軍など。 「その上-の敵になり参らせたる者にてあるに/義経記 6」
⑦めくりカルタで、あざの札。 「よく〱ぢや-を持つていなるるの/雑俳・削かけ」
⑧(「とも」「ども」などを伴って)どんなに。いかに。 「 -に目つぶれ、足をれ給へりとも/源氏 玉鬘」
[句項目]
天下三分の計 ・ 天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ ・ 天下は一人の天下にあらず、乃ち天下の天下なり ・ 天下は回り持ち ・ 天下晴れて
「 -人々ながるるとののしる事いできて/蜻蛉 中」
 
◆74歳で天下獲得をはたした徳川家康、その長寿を支えた健康術とは?
2016年05月08日
https://serai.jp/health/32170
家康の健康法(うどん)AC
常に温かいものを食す、これが家康の健康術。温かいうどんは、家康の好物のひとつだった。

<鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす>

100年以上続いた戦国乱世の時代に終止符を打ち、天下泰平をもたらした徳川家康(1543~1616)は、6歳の時から織田氏、そして今川氏へと13年にもわたって人質に出されていた。そう

した幼少から青年にかけて不自由な生活を余儀なくされた苦労人だっただけに、生涯、粗食をもっぱらとした。

主食は白飯ではなく麦飯で、おかずは1~2品で充分。三河(愛知県)出身であるから、大豆と塩のみで作った豆味噌(八丁味噌)を好んでよく食べた。麦と大豆は、ともにたんぱく質や

ビタミンなどの栄養価が高い食品である。


 
◆第30話 天下を望むもの - 奇叛天 ~きほうて~ 天に歯向かった男
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880784734/episodes/1177354054881100753
㈠. 「じいさん、酒はあるかい。」 みんなに酒を注ぎまわっていた、気のよさそうな作業頭 が聞いてきた。 「へえ、ありがとうございます。」 老人は欠けた木の椀を差し出した。白

濁 したどぶろくがなみなみと注がれる。 「今宵は特別、黒田の殿様からの振る舞い酒だ! まだまだ、たくさんあるぜい。みんな、飲んでくれい!」 全員がおおと声を上げた。みんな

にほっとした空気が漂っている。海の近くで、所々に地下水だまりなどがあり、難航を 極めた城の地下道の工事がやっと終わったのだ。 老人はだらしなく酔っぱらう職人たち を見 ...


 
◆家康も悩んだ「後継者」と「完全引退」 : 日経BizGate
http://bizgate.nikkei.co.jp/article/151691920.html
2017年12月5日 - 徳川家康」(ミネルヴァ書房)の笠谷和比古・国際日本文化研究センター名誉教授は「〝 後継者重臣会議〟は史実ではないだろう。徳川姓を名乗ることのできた家康の

 最も長い現役生活を送った戦国武将は徳川家康(1543~1616)だろう。1555(天文24年)に人質先の今川義元の下で元服して以来、約61年間を第一線で働いた。しかも晩年は平穏な引退

を計画しながら後継問題などが絡み、終生現役を余儀なくされた。約260年続く徳川幕府の礎を築いた家康も、最後まで心配事が絶えなかったようだ。いつ完全引退を決断すべきか、家康

のケースは現代トップにも何らかの示唆を与えそうだ。
 
◆それ天下に主たらんことを願う者は、能く一方に主たり
http://www.compass-point.jp/kakugen/1414/
偉人たちの言葉には、いつの時代にも通用する普遍性があります。それぞれの時代を懸命に生き、一事をなした人たちの一言だからこそ、今もなお私たちの心を揺さぶり続けるのです。

“心の栄養”として、活用してください。

それ天下に主たらんことを願う者は、能く一方に主たり