北上を続けるピースポートは3月2日、ついに硫黄島の沖合に到達した。
朝もやの中から、左の擂鉢山とそれに続く平坦な地形からなる硫黄島本島が浮かび上がってきた。
船がだんだんと近づくとともに、擂鉢山の姿も大きくなって見えてきた。
沖合目測で5キロくらいだろうか、擂鉢山もはっきりと見えるようになった。
ここは言うまでもなく戦争末期の日米の激戦の地であった。
島の守備隊である栗林忠道中将以下2万人の日本兵に対し、8万人のアメリカ海兵隊が昭和20年2月19日より上陸を開始した。
島全体に縦横に降りめぐらされた地下陣地より、大戦末期として珍しいほどの多数の武器を用意した日本側は、上陸アメリカ軍に一斉に襲いかかり、アメリカ側にも多数の死傷者を出した。
2月22日にはアメリカ側はこの擂鉢山に星条旗を掲げ、その写真がアメリカのマスコミで報道され、硫黄島の激戦が広く知られるようになった。
その後一か月にも及んだこの戦いで日本側は玉砕した。
しかしアメリカ側にはそれを上回る死傷者を出した。
しばらくの間、勝つことに慣れていたアメリカ軍にとっては真珠湾に続くくとも言ってよい惨劇であった。
船はこの擂鉢山沖合を左に回頭して、反時計回りにその沿岸を回るコースに入った。
硫黄島東側の平らな部分を拡大してみれば、何らかの航空関係の施設らしきものが見える。
格納庫にレーダーサイト、そして管制塔。
ここは現在は海上自衛隊の施設、並びにアメリカ海軍の航空訓練基地となっている。
そしてまぎれもなく日本の領土、東京都だ。
要するに人は住んでいるわけだ。
ならばと思って、今まで続けてきた、携帯の機内モードをを解除してみたら、すぐにアンテナが3本たった。
さっそく家族に電話をしたり、ヤフーニュースなどを見たりした。
他の乗客も同じように、日本の携帯電話各社の通話可能範囲だと知って、安心して電話を利用していた。
多分基地に駐在する自衛隊員のために電波が来るようにしているのだろう。
ピースボートのマストにも日本の領海に入ったということで、日の丸が掲げられている。
これは当然、島にいる自衛隊の監視員も望遠鏡で見ている。
やっと帰ってきたと実感できる瞬間であった。
もう一つここで珍しいものに出会った。
それはくじらの群れである。
いくつかが海上に出て、潮を吹いている。
小型のくじらの群れである。
イルカは南太平洋でも見たが、くじらは初めてであった。
よく3月3日には朝、別の島が見えてきた。
これは青ヶ島である。
ここは南海の絶島であるが、調べてみると緯度的には宮崎県くらいで、暖かいだろうが雪が降ってもおかしくはないところだ。
船はスピードを上げているせいか、島のそばを結構速く通り過ぎていく。夕方には別の島見えてきた。
これは八丈島である。
伊豆列島線に沿って北上するようである。
ここで日が暮れるが、明日の朝まだ明けぬうちには房総半島野島崎沖に現れ、そのまま午前中には横浜に入港する。
船の中では個人の荷物の整理などが忙しくなった。








