ヒーローを待っていても世の中は変わらない2 | 「しょう」のブログ(2)

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 「生活指導」という言葉は戦前、綴方教師の峰地光重がはじめて用いたといわれますが、「生活そのもの(それを綴り意識すること)が子どもたちを成長させる」というイメージです。当面、「生活指導」や「生活綴方」を中心に書いていきたいと思います。

 

この間の主な記事のPDF版

 表記書籍の中で湯浅誠は「ヒーローを待ち望む心理」の危険性と同時に、現状を改善したいという「活動的な市民が持つ焦り」の問題点を、体験に基づいて指摘します。ウクライナ戦争が続いている今、当時と共通する点と異なる問題があるわけですが、「現実と向き合う向き合い方」について示唆に富んでいるように思います。

〔以下、内容紹介の続き〕
 「強いリーダーシップ」をもったヒーローを待ち待ち望む心理は、「極めて面倒で、疲れる民主主義というシステム」を、私たちが引き受けきれなくなっている証ではないか。

Q その心理の問題点は?

A1「気づいたら自分がバッサリ切られていた」という形で、私たち自身の、ひいては社会の利益に反すること。

A2 多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化、形骸化の表れであり、またそれを進めてしまうという点。両者を結びつけているものが格差貧困問題の深まり。

Q「溜め」のない社会とは?

 そもそも論として、仕事と生活に追われて疲れている人は、こんな本を読む暇も気力もでてこない。かつて私はそのことを「溜め」という言葉を使って表現した。

 

 少なからぬ人たちの「溜め」を奪い続ける社会は、自身の溜めをも失った社会である。アルバイトや派遣社員を「気楽でいいよな」と蔑視する正社員は、厳しく成果を問われ、長時間労働を強いられている。正社員を「既得権益の上にあぐらをかいている」と非難する非正規社員は、低賃金不安定労働を強いられている。人員配置に余裕のない福祉事務所職員や、お金に余裕のない生活保護受給者が、お互いを税金泥棒と非難し合う。

膨大な報告書類作成を重ねて目配りの余裕を失った学校教師が、子どものいじめを見逃す。財政難だからと弱者切り捨てを進めてきた政府が主権者の支持を失う。これらすべて、組織や社会自体に溜めが失われていることの帰結であり、組織の貧困、社会の貧困の現われに他ならない。 

 『反貧困』より

 溜めのない人が増えていくことで「さっさと決めてくれ。ただし、自分の思いどおりに」と強いリーダーシップを発揮するヒーローを待ち望む心理が高まっていく。格差貧困問題の広がりと民主主義の空洞化・形骸化は、このような現象として、私の中で不可分な形で結びついている。

Q この本を書くきっかけとなった体験は?

 ホームレスの問題から始める中で、貧困問題に気づき、そこでもがく中で民主主義の問題に思い至った。渋谷でホームレス支援をやっていたのが「もやい」という団体を作って生活相談を受け始めてみると、若い非正規労働者などアパートのある人が相談に来るようになり、単なるホームレス問題ではくくれなくなった。「貧困問題」という言葉に行き着いたのが、2006年のこと。 

 そして、2007年に「反貧困ネットワーク」という活動をはじめ、2008年に「派遣村」を開催。その後、2009年に内閣府参与として政権に入り、格差貧困問題の改善をめざして働いた。生活就労一体型支援や、対象を限定しない電話相談の実施などやれたこともたくさんあったが、課題も多くあり壁にぶつかった。では、その壁って一体何なのか、と考えたら民主主義の問題に突き当たった。

Qどのような問題か?

 民間の活動と行政の公的な政策づくりは質的に違う。仲間うちで自主的に行う民間の活動の手法だけでは実際には政策は進まない。

 生活に困った人の相談を受ける生活支援の現場は狭い世界。いつもそうした状態に追い込まれた人たちとつきあうので、その現実については詳しくなっていくが、それに携わっていない人たちとの交流・意見交換の場は少ない。仲間内では前提とされるものがどんどん増えていって、言わなくても分かる雰囲気が作られていく。

Qそれ以外の人たちと接することでぶつかった困難は?

当たり前と思っていた前提が外の人たちには全然通じない場合がある。狭い世界の仲間内で、たくさんのことを共有した頭で外の世界に働きかけても、なかなか外の人たちに通じる言葉が見つからず、空回りしてしまう。

 えてして「外の世界は無理解だ、ひどい」となるが、原因はこちら側にあることも少なくない。自分たちが前提としているものを共有していない人たちと話し合うための言葉を見つけられないという問題。いわゆる「蛸壺化」、「ガラパゴス化」の問題。 

 私は出演したテレビ番組でそうした場面にしばしば出くわした。大抵討論形式だったから、私の反対側には、私と相いれない意見を持っている方が座る。その方たちは極めて真剣に私と真っ向から反対する意見を述べてこられる。反論を試みても、私は何度も「この人は人生何10年を生きてきて、その実感からこうした意見に達しているという重みと、その意見の堅さ」を感じた。

  自分の言いたいことを言うだけでは、決してこの人たちには通じない。また、私にはいつもこうした人たちの方が世の中では多数派なんだろう、という感覚もあった。自分の方が少数派だとすれば、その人たちを「わからず屋め!」と切り捨てても何も変わらない。 

Q 国の政策に直接関わって痛感したことは?

上記のような体験の延長線上にあることだった。

 民間の「濃く、だけど狭く」と行政の「広くだけど、薄く」は対照的であり、またどちらにも一長一短があり、一概にどちらが優れているとはいえない。

 政府の「やる気」や「意欲」の問題にするのは、安直で見せかけの回答に過ぎないと。それはちょうど生活に苦しんでいる人たちの苦しみを、やる気や意欲の問題にして、やらないのは本人にやる気がないからと言っているのと同じ。

 大切なのはやるための条件をいかに整えるか。誰が整えるのかと言えば、言うまでもなく私たちだ。なぜなら、私たちが主権者だから。ここで誰が調整責任を負うべきなのかという問題と絡んで、民主主義の問題が出てくる。

   世の中の九割の人が反対していることを、いくら私たちがやるべきだと言っても、そう主張する人が一割しかいなければ、一割の側につく政治家はほとんどいない。当然、九割を取る。そうでないと次の選挙に受からないし、そこで一割を取るような人は、そもそも議員に当選していない。(やるべきではないというのが「民意」)。それを「けしからん」「やらない政治が悪い」と言ったところで、一対九の構造を変えられなかったら、政治家は九を取り続ける。

  それを二対八、三対七、四対六に変えて行くのが、主権者である私たち(主権者として譲れない意見を持っている私たち)のやるべき事で「やらない政治が悪い」、ですますのはほとんど「俺の言うことを聞かないお前はけしからん」と言っているのと同じだ。

Q 最善を求めつつ最悪を回避するとは? に続く