学びの共同体とT高校の取り組み 1 | 「しょう」のブログ(2)

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 「生活指導」という言葉は戦前、綴方教師の峰地光重がはじめて用いたといわれますが、「生活そのもの(それを綴り意識すること)が子どもたちを成長させる」というイメージです。当面、「生活指導」や「生活綴方」を中心に書いていきたいと思います。

前年度は、教育学も含めて腰をすえて学ぶ機会を得ることができました。

このたびは、学び得た内容の一部を報告するとともに、その取り組みを私が比較的よく知っているT高校における「学びあいをとり入れた授業」について、意見をまとめたいと思います。

 それではまず、「学びの共同体の意義」をT校の取り組みとも関連させながらまとめていきたいと思います。

1、「学びの共同体」の意義(「学校づくり」)

「学びの共同体」といえば、4人グループやコの字型というわかりやすい学習形態が真っ先に頭に浮かびます。が、実を言うと「グループ学習や集団的な学び」を重視する実践は必ずしも新しいものではありません。「学びの共同体」の提唱に先立って従来から「学習集団づくり」、「協同学習」などの実践としてそれらは積み上げられていました。

しかしながら、佐藤学(東京大学教授)らの提唱する「学びの共同体」は従来の取り組みに見られない新しさを確かに持っていました。それは、取り組みが単なる授業研究を超えて明確に「学校づくり」「学校改革」として打ち出されていったことです。 

ここでは特に高校の現場における意義を挙げておきましょう。

①教科や学科の枠を越えて、学校全体として「授業研究に取り組む体制」ができること。いいかえれば、職員集団が「学びの共同体」になること。 

 これまで高校の現場において、教科や学科の枠を越えて「授業研究」を一緒に行う機会は稀でした。  「学校改革の取り組み」としての「学びの共同体」の広がりが、同時に教科や学科の枠を越えた「授業研究の体制」を広げていく意味を持っていたことは間違いありません。 

 

事実、T校においても全校体制の授業研究会が始まったきっかけは、(「学びの共同体」を参考にして進められた)「学びあいのある授業づくり」の取り組みです。従来の研究授業(ほんの数人の職員だけが参観し、研究協議を行う)とは異なる大きな研修体制ができ、教科・学科の枠を超えて刺激を与えあう機会がつくられたことの意義は大きいでしょう。

「学びの共同体」は、もともとそのような取り組みとして提唱されたわけですが、とりわけ、授業後の研究協議が「子どもの学びの事実」を中心に進められる(したがって、発言にはその教科の専門性を必ずしも必要としない)という方式が「枠を越える取り組み」を促進した、とも考えられます。

②上記の体制を基盤に、「教育評価」の力を高めあう同僚性が築かれる

 「子どもの学びの事実」を中心に進められる授業後の研究協議が、実りある「教育評価」(教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件の整備につなげていく取り組み)を協力して進めていくものであることも注目に値します。

 ただ、ここでは先を急がずに、そもそも「教育評価とは何か」という点をしっかり補っておきましょう。(「教育評価」に関する詳しい論考はこちら) というのは、この理論こそ、「学校をよりよいものに創りかえていく展望」を開いていくものだからです。

さて、教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べています。

「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」

「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」註①

 ここで大切にしなければならないのは、試験の点数になりにくい部分も含めて、教職員が子どもたちの学習成果・成長を適切に評価していく力です。中内は上記著書の中で「有能な教師は子どもの顔色やささやきなどから答えに相当するものを読み取っていく」と述べていますが、例えば、子どもたちの表情・態度・発言・行動・発表・作品などから学習成果をていねいに読み取る、といった意味における「評価の力」は教職員の重要な専門性だと言えるのではないでしょうか。

さて、「学びの共同体」における授業後の研究協議では、授業者が見逃してしまいそうな子どもの発言・態度・相互交流を出し合い「子どもの学びの事実」を中心に議論していきます。多くの場合、そこから様々な「気づき」が得られるものですが、そのような議論が適切に深められていけば、「教育評価の力」を相互に高めていく有力な方法となるでしょう。

さて、それでは、T校で実際に行われている研究協議はどう「評価」できるでしょうか。前項でも述べたように教科・学科の枠を超えて授業を参観し研究協議することには大きな意義があります。 

しかしながら、とりわけ授業後の研究協議については、意義だけでなく課題をも明確に意識することが大切だと考えています。

まず、実態としてT校の研究協議における職員の発言は「感想を述べ合う」ものが多いのですが、これは、「生徒の学びの事実を出し合って協議する」という「学びの共同体」における典型的な研究協議とは異なるものです。

それでは、このような「感想を述べ合うこと」には意味がないのでしょうか。決してそうではないと考えています。特に授業が自分の専門外である場合、参観する職員にとってその授業自体が新鮮で、まるで自分自身が生徒になったかのように授業に「参加」している様子が見て取れます。いわば、自分自身を生徒の立場において「刺激を受けたことや『自らの学びの事実』」を研究協議で出し合うことは、生徒自身の学びの事実を類推していく上でも有意義だと考えられます。

しかしながら、生徒の立場に身をおいて授業を参観するだけでなく(それと同時に)生徒たちの様子をしっかり観察することは、やはり、重要だと言わなければなりません。

参加する職員全員が、子どもたちへの緻密な観察をもとに「学びの事実」を丁寧に出し合う研究協議にしていくこと、そのような積み上げを通して子どもたちの学びや成長を適切に評価していく現場の力量」を高めあっていくことの重要性はいくら強調してもしすぎることはないでしょう。

そのためには、例えば特定グループ内での発言やつぶやき、生徒自身の姿を観察しメモする書式をつくり、職員全員がそれをもって参観に臨む、といった工夫も有効なのかもしれません。

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