教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 | 「しょう」のブログ(2)

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 「生活指導」という言葉は戦前、綴方教師の峰地光重がはじめて用いたといわれますが、「生活そのもの(それを綴り意識すること)が子どもたちを成長させる」というイメージです。当面、「生活指導」や「生活綴方」を中心に書いていきたいと思います。


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「教育をつくりかえる道筋」について私たちはどう考えていけばいいのでしょうか。 

 前年度、中内敏夫、田中耕治らの理論・考察を学ぶ機会を得て私なりにまとめた「論文」(主に2012年3月に執筆したもの)を何回かに分けて公開します。


 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~

 大阪の橋下維新の会が提出・成立させた「教育基本条例案」。大阪の世論調査では、支持する人たちは多数のようだが、なぜこの条例案は多くの人に支持されるのか。様々な人たちがその問題点を指摘するものの、結局、われわれ自身「教育をより良いものにつくり変えていく道筋を充分示せていない」ということが背景にあるのではないだろうか。

いまこそ、そのような道筋を積極的に示していく必要があると思われるが、実を言うと、すでに実践可能な理論は構築されているのである。それは何か。「教育評価」の取り組み(=教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件整備につなげていくという発想・取り組み)である。

教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。


「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」

「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」

 そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。

 このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。

〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕

 ながいあいだ用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。そのことは、小学校、中学校の評定において相対評価が廃止され、目標準拠評価が採用されるに至ったことからも、確認することができる。

さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。

1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる

2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる

3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる

4)「教材精選」の目安が得られる

5)学習における相互協力が子どもにとって(義務ではなく)必然になる

もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。

 そしてまた、学力が目標に達しているかどうかを判断する材料として、「テスト」を偏重する思考からの脱却も要請される。テストは「評価のひとつの科学・技術」として編み出されたものであるが、「近代の市民社会における教育的人づくりにとっての妥当性」という基準でそれは検討される必要がある。その結果、客観テストは相対化されていくことになるだろう。つまり、教室内での質問による確認、子どもたちの作品や発表内容等も含め「評価のてがかり」はさまざまに存在するわけで、「テスト」はあくまでも「評価の一手段」なのである。



〔註〕

①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者

②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁

戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)

1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである

2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである

3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる

4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる

5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである

③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁

中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁
                       続く

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