NO 2538 どっちでもいいと考える | 社長ブログ

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社長 笹原のちょっとイイ話!

2024年7月18日

 

皆さん、お早う御座います。

 

 

今日はとってもいいお天気です。

 

いいというより、かなり暑くなりそうです。

 

 

全国各地で35度超えの酷暑が予想されています。

 

熱中症には十分にお気をつけ下さい。

 

 

 

 

今日のお話は、「なぜか好かれる人がやっている100の習慣」(藤本梨恵子著)

 

から、”どっちでもいいよ考える”をお伝えします。

 

 

 

どっちでもいいと考える

 

 

街でブランド物に目がいく人はどんな人でしょうか?

 

すぐに浮かぶのはブランド物が好きな人では

 

ないでしょうか?

 

 

でも、ブランド物が好きな人だけでなく、

 

嫌いな人も目が行くのです。

 

 

「○○はダメ」と強く禁止していると

 

やたらと目についてきます。

 

 

ブランド物に興味がない人はそもそも

 

目に止まりません。

 

 

意識しないので、その情報を引き寄せないのです。

 

 

 

知り合いの教師は、

 

「電車の中で化粧する人が許せない」と言います。

 

 

「化粧は人前でするものではない」という

 

価値感を持っているからです。

 

 

だから電車でも、ファミレスでも、

 

化粧している人を発見して、嫌な気持ちになるのです。

 

 

 

私は、電車で化粧している人を滅多に見ることが

 

ありません。

 

 

ファミレスで化粧している人には

 

一度も出会ったことがありません。

 

 

きっと電車の中で化粧をしている人は

 

たくさんいるかもしれませんが、

 

気にならないので目に入らないのです。

 

 

もしやたらと目についてイライラすることが

 

あったら、自分で禁止している価値観に

 

気づくチャンスです。

 

 

 

人が幸せになる方法の1つは、

 

良い・悪いというジャンルを手放すことです。

 

 

例えば「想像力があることは良いことだ」

 

というジャンルは一見、害がないように感じます。

 

 

そかし、その裏の価値感として、

 

「自分で発想できない、考えることが

 

できない奴はダメだ」など、

 

 

反対のものを否定する価値感が

 

生まれてしまうのです。

 

 

何かを否定する価値感がある限り、

 

イライラは生まれ続けます。

 

 

 

 

ブッダは人に「大地はミルクをこぼしても、

 

糞尿をまき散らしても、同様に受け入れる」と、

 

大地の寛容さについて語っています。

 

 

物事や人に良い悪いでジャッジしている限り、

 

あなたの心が平穏であることはありません。

 

 

 

ブッダの前で人が癒されるのは、

 

人をジャッジしないからです。

 

 

裁かれないとき、人はリラックスして

 

ありのままの自分でいられます。

 

 

良い・悪いのジャッジを緩め、

 

どちらでもいいと考えられる人物は

 

他人に寛容です。

 

だから愛されるのです。

 

 

 

世の中には物事にこだわりを持って

 

生きている人がいます。

 

 

それはある意味幸せなことかもしれません。

 

 

自分の信念を貫くことで満足感を得ることは

 

いいことですよね。

 

 

ただ、年を取るとこだわるのも

 

結構体力や気力がいって、疲れることがあります。

 

 

生きてきた時間が長い分だけこだわる

 

ものも多くなり、生き辛くなってきます。

 

 

今、「断捨離」という言葉がはやっています。

 

特に年配の方に多く聞かれます。

 

 

こだわってきた物、大切にしてきた物を、

 

思い切って捨てることで、身体も心も

 

軽くするということです。

 

 

あの世へはお金も物も持っていけませんからね。

 

 

以前読んだ本で五木寛之さんの「親鸞」という

 

本があります。

 

 

タイトルの通り、親鸞聖人の一生を書いたものです。

 

 

その中に、親鸞が京の都で修業していたくだりがあり、

 

親鸞の一つの悟りの言葉が出てきます。

 

 

「我は河原の石つぶて」という言葉です。

 

 

河原の石は雨風や日照りにあっても、

 

ただそこにじっとして「ある」だけ。

 

 

この言葉は鴨川沿いを歩いていたとき、

 

悩んでいた親鸞が河原の石ころを見て

 

悟ったものです。

 

 

石ころは時には激流に流され、

 

厳しい自然の仕打ちにも堪えて

 

ただじっとしてそこにいる。

 

 

厳しい修業の中で親鸞は、自分もあの

 

石ころのようにこだわらず、とらわれず

 

生きようと悟ったのでした。

 

 

私はこの言葉が大好きで、苦しい時や

 

辛いときに自分の信条としています。

 

 

皆さんも思い切って、こだわりを捨ててみては

 

いかがでしょうか!