18歳の春。志望大学には合格できなかったものの親元を離れて上京した。日本文学をかじるなら京都か奈良でと決めていた。どちらも古都。私にとっては上京だった。

 

古典文学の舞台になったお寺がそばにあり、休講になれば散策できる。当時はこれほど観光客は多くなかったし、今思えば贅沢な環境だった。

 

専攻した理由は国語が好きだったから。「作家の誰々が好きで」という友人たちには失笑され、私は逆に相手の動機や読書量に圧倒された。

 

クラスの担任は4月に赴任してきたばかりの助教授(今でいうところの准教授)だった。東京生まれ、東京育ちの先生。

 

初めて生で聞く標準語とやらにも圧倒された。さらにその歯に衣着せぬ話し方にビクビクしつつ私の大学生活は始まった。

 

当時も活字離れという表現は存在していたと思う。その先生が活字が無くなることはないとおっしゃっていたのが印象に残っている。

 

確かに30年近く経っても私は活字に囲まれて生活している。ただし、日本語レッスンや自分の外国語学習などに役立つものしか読まない。

 

「和語の語彙を増やすために小説を読んでいたのが、いつの間にか内容にハマっている。」

 

これは、ある日本語学習者(母語は英語。上級レベル)が言っていたこと。その人は普段ビジネス書しか読まないそうだ。つまり実用性を重視する人。

 

小説を読むのに憧れている私は羨ましく思った。

 

別の学習者(母語は仏語。初級レベル)には練習問題を利用して小説を薦めてもらった。その人の大学時代の専攻は仏文学だった。助言する時に使う「たらどうですか。」↓

 

 

「フランス語で小説を読みたいです。何を読んだらいいですか。」と質問して薦められたのがこれ。薄くて簡単に読めると言われ、さっそく図書館で借りた。

 

私には入り込めず、貸し出し延長して、なんとか読み終えた。内容だけはなんとなく分かったので現地の本屋でペラペラめくって買うかどうか決めよう。

 

その後に借りたのがこれ。

 

これまでの私小説的な作品とは対照的に、こうした一連の作品を書いていた間に「戸外」で起こっていた出来事に目を向け、地下鉄やスーパーマーケットでの情景などをスケッチ風に描いている。

 

この作家はノーベル文学賞を受賞した時に知った。

 

そして、去年の夏、仏語の試験対策として大量にポッドキャストを聞いていた頃、代表作を夫から薦められ、ジョギング中に聞いてみた。

 

目ではなく耳で感じ取っただけだけれど、その濃厚さと真夏の暑さが混じって記憶に残っている。小説全般に苦手意識がある私は日記やエッセイを気楽に読みたいと思った。

 

『戸外の日記』で特に気に入ったのは、ATMに並ぶ人の様子を観察した文章。原書と比べてみようと、ブログに書き写したのに下書きごと消えてしまった。

 
まあ、後1か月半ほどで現地の本屋に行って手に取ることができるはず。記憶はそんなに薄れていないだろう。もう1つ、美容院での出来事の描写も気に入った。
 
著者が美容師に「本を読むのは好き?」と尋ねると、「読んでもいいけど。」と返ってきたのが皮肉っぽく描かれている。読書が家事のような義務になっているということ。
 
私はこの美容師と同じだ。たとえ義務であっても現地へ行く前に同著者の小説をもう1冊は読んでおきたいと思い、遅読が2冊も借りた。内容が濃すぎて、翻訳版も耐えられるか。
 
そして、小説の肉を剥ぎ取って骨に当たる主張を読み取れるか。ノーベル文学賞を受賞した時、このように評価されていた。

 

作品の中でジェンダーや言語、階級による大きな格差によって特徴づけられる人生を、一貫して、様々な角度から検証してきた。
 
その他、日本人作家の小説の仏語版も手に入れたいと思う。こうして渡仏のモチベーションを上げるとともに読書に対する苦手意識も克服したいと思っている。
 
(小説を)読む習慣のない私の挑戦は続く。

数か月前の日めくりにも書かれていたように読書とは誰かに導かれて行うものだと思う。日本語学習者たちに感謝しよう。