数年に1回訪れるチャンス。あれはレッスンで読解問題に取り組んでいる時だった。何かの拍子に口数の少ない学習者が日本の印象を話し出した。

 

「日本は特別です。小さい国なのに世界で知られているし、みんな興味を持っています。食べ物とかアニメとか…」

 

その続きが聞きたくて、前のめりになるのをグッと抑え、待つ。結局「今、考えているところです。」と相手は言って笑うだけで、はぐらかされるのだ。

 

過去のブログによると、前回は2年前だった。「日本ではまだファックス、現金、通帳を使っている」が口癖だった相手の口から初めて誉め言葉が出てきたのだ。
 

「日本には、いいところがたくさんあります。」と。この時も詳細は教えてくれず。「どうして日本?」なんて題をつけると、集まってくる日本人。私もその他大勢の一人である。

 

自国がどう見られているか興味津々。そんな時、冷静さを取り戻すため、35年ほど前に一人の外国人大学生が日本語で書いた文章を読み返すようにしている。

 

以下、ノエスモエン・イザベルさん『外国との共通性』目を向けて」より引用。

 

日本人は外国人と比べて自分たちの違いをあまりに強調しすぎる、と思います。日本独自の文化・伝統の豊かさを尊重することと、その独自性だけを一面的に強調することとは別だと思うのです。


日本人は自分たちの独自性・特殊性に対して意識過剰のように思われます。そして、「外国人に日本人のことがわかるはずがない」と思い込んでいるようです。


また、しばしば強調される日本人の一体性=同質性ということにも疑問を感じます。日本の各地を訪ねてみた私の経験からも、各地方の歴史はかなり多様だし個性的だと感じます。


このように考えると結局、多くの日本人は日本をよく知らないと言わざるを得ないのです。ソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉を思い出します。日本の独自性だけでなく外国との共通性にも目を向け、他方で、日本の中の多様性にも正しく目を向けることによって、自国の理解がもっと深まるに違いありません。

 

そうすれば、外国人とのコミュニケーションももっとスムーズになり、相互理解も広がると思います。そして、それこそが真の「国際化」につながると私は確信します。このような認識が多くの人々に広まることを期待します。

 

日本語レッスンでは、外国語と異なる点(特異性)を説明することが多い。でも、意外な共通点もある。その点、言語も文化も同じだと分かりつつ、それでも意見を聞きたい。

 

日本かぶれではなく、日本にさほど興味なくやって来た人たちの意見。日本の良いところも悪いところも率直に教えてほしい。時にはグサッと刺さることがあっても。

 

冒頭の学習者は日本に住んで来年で9年目。10年目に向けて永住ビザの申請を始めるらしい。数年前にはマイホームを建てたし、去年には庭に桜の苗木を植樹した。

 

ご夫婦揃って英語圏の出身で理系の院卒。20代前半に来日し、まだ30代前半。仕事ならどこにでもありそうだけど、日本を選ぶということは住みやすいのだろう。

 

他の日本語学習者の発言も思い返すと、工事現場に草花や動物の癒やされる絵、ゴミ収集車から流れる軽快かつ哀愁漂う音楽、オタクを受け入れる土壌などにもヒントがありそうだ。

 

最後の楽園となり得るか。まず、外国人には日本語を学んでもらわないと。日本人も持ち前の好奇心に加え、鈍感さ、よく言えば、寛容さを持ち続けられれば可能だろう。

 

この一見、相反する「好奇心」と「鈍感さ」の組み合わせ。平和ボケの一言で片づけられがちだが、いわゆる先進国の中で持ち合わせているのは日本だけだと思う。

 

そのためにも自分にできることをやっていきたい。住みよい国であり続けるために。住みよい国は自分たちだけのものではない。新しいものを取り込んでいくのが日本のやり方だと思う。

 

外国人夫と散歩。日本語レッスンで説明に迷った時も、日々のレッスンで感じたことを言葉にしてブログに記す前にも夫の意見を聞くようにしている。
 
手前味噌かもしれないが、夫こそ日本の良いところも悪いところも知る「通」だと思う。来年で日本に住んで24年目。日本通に認定しよう。
 
以下は、年の瀬に慌てて書いた文章。

 

 

 

 

 

悪夢にうなされそうな画像もあり。良い初夢が見られるように最後は桜で締めよう。日本在住45年と30年(当時)の乙なやり取り↓

 

24年目の夫もそろそろ仲間に入れてもらえるか。年数だけではない。その言語能力と奥ゆかしさ(元同僚談)で職場でも重宝されているのが分かる。

 

充分に持ち上げたところで、夫よ、日本語能力試験(JLPT) N1、三度目の正直となるか。逆に今度落ちてみろ、どうなるか分かってるだろうな。