(にち)(にょ)()(ぜん)()(へん)()()(ほん)(ぞん)(そう)(みょう)(しょう)

 

本文

この御本尊(ごほんぞん)(まった)余所(よそ)に求むることなかれ。ただ我ら衆生の法華経を持って南無妙法蓮華経と唱うる胸中(きょうちゅう)肉団(にくだん)におわしますなり。これを()(しき)(しん)(のう)真如(しんにょ)(みやこ)とは申すなり。
 十界(じっかい)具足(ぐそく)とは、十界一界もかけず一界にあるなり。これによって曼陀羅(まんだら)とは申すなり。曼陀羅というは天竺(てんじく)の名なり。ここには、(りん)(えん)具足(ぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも()づくるなり。
 この御本尊もただ信心の二字におさまれり。「信をもって()ることを得たり」(以信得入(いしんとくにゅう))とは、これなり。日蓮(にちれん)弟子(でし)檀那(だんな)()、「正直(しょうじき)方便(ほうべん)()つ」「()(きょう)一偈(いちげ)をも()けず」と無二(むに)に信ずる(ゆえ)によって、この御本尊の宝塔の中へ

()るべきなり。たのもし、たのもし。いかにも後生(ごしょう)をたしなみ給うべし、たしなみ(たも)うべし。あなかしこ。南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり。信心の厚薄(こうはく)によるべきなり。

 

強き信心を(つらぬ)き幸福(きょう)(がい)を開く

背景と大意

 (ほん)(しょう)は、建治3年(1277年)8月、日蓮大聖人が56歳の時に()(のぶ)(あらわ)され、女性門下の(にち)(にょ)()(ぜん)に送られたお手紙です。御本尊の(そう)(みょう)(よう)(そう)姿(すがた))等の(じん)()が明かされていることから、別名を「御本尊相貌抄」といいます。
 日女御前についての(しょう)(さい)は明らかではありませんが、信心と教養の深い女性であったことがうかがわれます。
 当時は(もう)()(しゅう)(らい)(文永の(えき))後の(こん)(らん)()で、社会は(そう)(ぜん)としていました。そのような(じょう)(きょう)の中でも、(じゅん)(しん)な信心を(つらぬ)いていた日女御前は、大聖人から御本尊を(たまわ)ったことへの感謝を()めて()()(よう)をお(とど)けしました。
 その真心への()(へん)()である本抄で、大聖人は、末法における「(ほっ)()()(つう)のはたじるし」(新2086・全1243)として御本尊を(あらわ)されたことを示されます。
 次いで、法華経に説かれる「()(くう)()()(しき)」の姿(すがた)(もち)いて顕された御本尊の相貌について(しょう)(じゅつ)し、この御本尊を供養することが、いかに(こう)(だい)()(へん)()(どく)となるかを示された上で、純真な信心を持続するよう教えられています。
 そして、この()(だい)()(りき)をもつ御本尊も、決して他の場所にあるのではなく、御本尊を信じる(しゅ)(じょう)の生命の中にあることを強調され、信心こそが成仏の(よう)(てい)であることを()(きょう)()になっています。

()(しき)(しん)(のう)(しん)(にょ)(みやこ)

生命を根底から(へん)(かく)できる

 日蓮大聖人は(ほん)(しょう)で、御本尊は、妙法を信じて題目を唱える私たちの「(きょう)(ちゅう)(にく)(だん)」(新2088・全1244)、すなわち、生身の生命の中にあると明かされ、それを「()(しき)(しん)(のう)(しん)(にょ)(みやこ)」と示されました。この「九識」とは、生命が物事を(にん)(しき)する働きである「識」を9種に分けたうちの、第9識のことです。
 仏法では、生命の九つの認識作用を「九識論」として体系化しています。
 最も(ひょう)(そう)にあるのが、五官に基づく認識作用である(げん)(しき)()(しき)()(しき)(ぜっ)(しき)(しん)(しき)の五識です。
 その五識による知覚を(とう)(かつ)し、分別・判断したり、記憶したりする働きが第6識の意識です。日常生活は、ここまで見てきた第6識までの働きで(いとな)まれています。
 その(おく)にある、根底の()()意識が第7識の()()(しき)です。さらに(しん)(そう)にあるのが、私たちの(ぜん)(あく)の行い((ごう))を(ちく)(せき)し、(えい)(きょう)(およ)ぼす第8識の()()()(しき)です。
 そして、生命の最も(おう)(てい)に、()()(しき)ともいわれる、清浄な仏の生命そのものである、第9識の()()()(しき)があります。この清浄無垢の生命を()(げん)することによって、第8識に(きざ)まれた、さまざまな業を(じょう)()し、(てん)(かん)していくことができます。
 この第9識が心の働きの中心なので「心王」といい、仏の覚りの真実と一体であるので「真如」といいます。「九識心王真如の都」とは、私たちの仏界の生命を表しています。
 御本尊に題目を唱える時、この第9識が(けん)(げん)します。(じっ)(かい)(ろん)でいえば、仏界が顕現するのです。
 それにより、あらゆる生命の働きを幸福の方向へと転じることができます。生命を根底から(へん)(かく)できることを示すのが、仏法の九識論です。
 池田先生は語っています。
 「妙法を唱え、広布に走る(みな)さま方自身の生命こそが、最も(そん)(ごく)(そん)(ざい)なのである。
 わが(きょう)(ちゅう)にある、この仏の生命の都を、広々と、(ゆう)(ゆう)(ひら)き、(かがや)きわたらせていくことである」(2003年12月、各部・海外代表協議会でのスピーチ、『池田大作全集』第95巻所収)
 今こそ、強き信心で“わが胸中の御本尊”を輝かせながら、「幸福は私たち自身の中にある」との希望の(はげ)ましを、(えん)する友へ広げていきましょう。

(じっ)(かい)()(そく)の御本尊

(だれ)しもが(ごく)(ぜん)(ちから)(はっ)()

 御本尊の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と(したた)められ、その周りに、(しゃ)()()(ほう)の二仏をはじめ、十方の(しょ)(ぶつ)()(さつ)から()(ごく)(かい)(しゅ)(じょう)まで、(じっ)(かい)の一つも欠けずに全てが(おさ)まっています。
 日蓮大聖人は、法華経の「()(くう)()()(しき)」を(もち)いて、仏としての()()(しん)の生命を、そのまま御本尊として()()(けん)されたのです。十界の全てが(そな)わっているので「十界()(そく)の御本尊」といわれます。
 (ほん)(しょう)では、御本尊に(したた)められた十界のどの衆生も、全て妙法の光明に照らされて「(ほん)()(そん)(ぎょう)」(新2087・全1243)を現していると述べられています。
 つまり、十界の全ての働きが、仏界の()()()()の光に包まれて、生命本来のありのままの(とうと)姿(すがた)(ごく)(ぜん)(ちから)(はっ)()しているということです。
 それはまた、正しい信心をもって御本尊を(はい)することで、(だれ)しもが、妙法の(とう)(たい)として(かがや)き、尊い姿を現していけるということでもあります。どのような(じょう)(きょう)にあったとしても、万人が「本有の尊形」として、使命の(こう)(さい)を放っていけるのです。
 例えば、()(ごく)のような()(のう)()(ちゅう)にあっても、御本尊に祈ることで、(こん)(なん)な現実に勇んで立ち向かう生命力が()き上がります。
 すなわち、仏の生命力によって、いかなる人生の試練も、さらなる幸福(きょう)(がい)を開くための(ちょう)(やく)(だい)としていくことができます。信心によって、私たちは苦悩の意味を百八十度、(てん)(かん)できるのです。
 池田先生は語っています。
 「(そん)(ごく)な妙法の生命を引き出し確立するための御本尊であり、引き出すための信心です。
 まさに、御本尊の(そう)(みょう)は、法華経の(しょ)(ほう)(じっ)(そう)の法理に(もと)づくものであり、(ぼん)()がそのままの姿にして、仏の()(だい)な生命を(ひら)(あらわ)せることを教えられています」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第11巻)
 (えん)する全ての人の幸福を祈り、(はげ)ましの対話を広げながら、一人一人の極善の生命力を(しょく)(はつ)し、引き出していく――。創価の人間主義の、不断の歩みによって、今や全世界に、()(さい)()()(にん)()のスクラムが大きく広がっています。