〈ワールドトゥデイ 世界の今〉 2024年6月18日
フィリピン広布60周年から新たな船出を!――師弟の息吹みなぎるマニラ首都圏の未来部、学生部、男女青年部の友(5月26日、マニラ国際平和会館で)
7000を超える島々からなり、その美しさから「東洋の真珠」とたたえられるフィリピン。本年は、1964年に池田大作先生がマニラの空港で同志を激励してから60周年に当たります。今、同国の地涌の友は社会の各分野で活躍し、地域に信頼と共感を大きく広げています。先月下旬、マニラ首都圏を訪問し、発展を続けるフィリピンSGI(創価学会インタナショナル)の友を取材しました。(記事=木村輝明、写真=井﨑伸明)
マニラの空港の玄関を一歩出た途端、気温40度に迫る暑さと湿気に圧倒された。
駐車場から出ようとする車は、われもわれもと、けたたましくクラクションを鳴らしている。フィリピン文化会館のあるケソン市に向かう高速道路は大渋滞していた。
通り過ぎる街並みは、さまざまな“顔”を見せていた。ある地域では、築年数の長い団地や木造の家々が立ち並び、“フィリピンのコンビニ”といわれる「サリサリストア」が店を構えるなど、昔ながらの面影が残る。一方で、ビジネスの中心都市マカティには、近代的な高層ビル群が林立している。
発展を続けるフィリピンの首都マニラ。左手前の建物が国立博物館。奥には、ビジネスの中心地の一つであるマカティ市の高層ビル群が立つ
高速道路を1時間ほど走り、一般道に入ると、“市民の足”であるジプニー(乗り合い自動車)が、そこかしこで乗客を運ぶ姿が目に入る。
どのジプニーも、多彩な塗装が施されていて、一台として同じものはない。マーケットには、多くの人々が押し寄せる。
昨年のフィリピンの経済成長率は5・6%。ASEAN(東南アジア諸国連合)の中でもトップで、本年はさらに高い成長率が見込まれている。各国からの投資も相次ぐ。
未来に伸びゆく街の熱気。
人々の「生きる力」の強さ。
まさに、“エネルギッシュ”という言葉が似合う地域だ。
16世紀までは、小さな漁村だったといわれるマニラ。1571年、スペインがこの地をフィリピン植民地の首都と定め、パッシグ川の南岸に、城壁都市「イントラムロス」を建設した。
フィリピン経済の中心都市として名高いタギッグ市のボニファシオ・グローバル・シティ(BGC)
城壁内には、政府庁舎や教会、スペイン人住宅などが建てられた。1898年に領有権がアメリカに渡ると、今度は城壁外が開発された。現在17の市・町に、約1348万人が暮らすマニラ首都圏(メトロ・マニラ)は、フィリピンの政治・経済・文化の中心地として、発展を続けている。
多様な姿をもつ地域を舞台に、フィリピンSGIの友は、広布拡大に駆けている。
マカティと並んで、商業の中心地域として知られるタギッグ市は、高層ビルや大規模なショッピングモール等が立ち、フィリピンの経済発展を象徴する地域である。
マニラ市内を走るジプニー(乗り合い自動車)やトライシクル(三輪タクシー)
ジョーセイ・トレンティーノさん(男子地区副リーダー)は、同市にある世界最大規模のIT企業に勤務する。
「今の仕事を志したのは、創価班での任務がきっかけだったんです」
祖父の代からSGIメンバーの家庭で生まれ育ち、未来部の頃から、創価班のサポートとして、会合運営に携わった。「音響やパソコン操作など、多様な役割を担う中で、将来、ITに関わる職に就きたいと思いました」
名門の国立フィリピン大学ディリマン校で勉学の日々を送り、学会活動にも全力で挑戦。コロナ禍で家にいる時間が多くなった時には、小説『新・人間革命』の研さんに励む中で、山本伸一の生き方に感銘を受け、師弟に生き抜くと決めた。
「信心を実践する中で教えていただいた『思いやりの心』が、仕事でも大いに生きています。上司からも、『いい仕事をしているね』と評価をもらいました。創価班の任務を通して、相手の立場に立って考え、行動することを学んだおかげです」
ジョーセイ・トレンティーノさん
池田先生はこれまで3度(1991年、93年、98年)、フィリピンを公式訪問している。91年4月の1回目の訪問では、国立フィリピン大学から、池田先生の平和・文化・教育への貢献をたたえて、名誉法学博士号が贈られた。
同大学の修士号を取得したジョルジアーナ・アン・ディ・パイさん(総合本部女子部長)は現在、母校の助教として、最優秀の学生たちに経済工学や統計学などを教える。
「わが国にとって、教育は喫緊の課題です。とりわけ、教育の質を高めることが求められています」
OECD(経済協力開発機構)が、高所得国と中間所得国79カ国で行った学力調査において、フィリピンは近年、最低水準にとどまっている。
アン・ディ・パイさんは、「社会全体に、教育の重要性に対する理解が浸透していないと感じています。だからこそ、教育がいかに大切かを社会に発信するSGIの存在意義は、フィリピンでも大きいのです」と強調する。
彼女はマニラ首都圏の少年少女部の担当者を9年間務め、未来を担う宝の友を励まし続けている。
ジョルジアーナ・アン・ディ・パイさん
3回にわたる池田先生のフィリピン訪問では、多くの友が師弟の原点を刻んだ。
ラモン・ウィさん(副壮年部長)は不動産仲介業と建設資材の販売業を営んでいたが、90年、経営が不安定に。その時に母から題目を教えてもらい、祈り始めた1週間後、融資を申し出る銀行が現れ、窮地を脱した。
信心の確信をつかみ、入会すると、91年には諸行事の役員として、師の激励行を陰で支えた。さらに93年、98年にも、先生との出会いを刻む。
97年に始まった「アジア通貨危機」の際は、フィリピンの通貨ペソも下落し、不動産業者の多くが業績悪化で店をたたんだが、ウィさんは負けなかった。
「学会活動をやり抜く中で必ず乗り越えられると教えてもらい、その通りに戦いました」
大きな利益を求めず、小さくても着実な仕事を受け続ける中、最終的には危機を乗り越えることができた。
現在は、200社以上が加盟する団体の会長として、同業者のために奮闘する日々だ。
ラモン・ウィさん
マニラ首都圏では不屈の希望を胸に、多くのメンバーが宿命転換のドラマをつづってきた。
チキ・タマヨさん(ヤング・ミセス委員長)は、10歳の時に母親と入会した。
信心の原点は、大学の薬学部を卒業した2004年。薬剤師試験に挑戦したが不合格だった。先輩から激励を受け、今こそ信心で奮い立つ時と決め、ひたぶるに題目を唱え、学会活動に取り組んでいった。05年、2度目の挑戦で合格を勝ち取ることができた。
結婚後、長女を出産するも、神経発達の異常が判明。次女もまた、ヘルニアを患って生まれてきた。それでも、信心から一歩も退くことはなかった。長女は地道な治療を経て完治。次女も手術が成功し、現在は元気に学校に通っている。
これらの体験を語りながら、今、ヤング・ミセスのリーダーとして、励ましの輪を広げる日々を送る。
チキ・タマヨさん
1991年の公式訪問の前に、池田先生は2度、フィリピンに足跡をとどめている。
1回目は62年1月、イランへの経由地として、飛行機の乗り継ぎのためにマニラへ。
2回目は64年5月、オーストラリアへ向かう途中にマニラの空港に降り立った。深夜だったが、そこに3人の同志が先生を求めて駆けつけた。先生は「ここフィリピンにも地涌の友がたくさんいるんだよ」と語り、集った友を励ました。
以来60星霜。フィリピンSGIは青年を先頭に大きく発展を遂げてきた。
マニラ市内のマーケット。食料品、衣料品、雑貨など、多彩な品物がそろい、多くの買い物客や観光客でにぎわう
同国の人口は約1億900万人で、平均年齢は24歳。人口の約60%が30歳以下と、非常に若く未来性のある国だ。SGIもまた、男女青年部の友が多く、若き人材が広布拡大の原動力となっている。
5月26日朝、マニラ国際平和会館での集いには、約50人の男女青年部員が参加。雨の中、参加した一人一人の表情には、池田先生の後を継ぎ、自らの勇気と力で広布の新時代を開くとの決意が輝いていた。
国立フィリピン大学の構内に立つ国際教育交流施設「イケダ・ホール」。同施設の別名である「バライ・カリナウ」は「平和の家」の意
先生は国立フィリピン大学での名誉法学博士号授与式の謝辞で、次のように述べている。
「マニラを訪れ、私は思いました。“世界一、荘厳なる旭日”を仰ぎ、“世界一、尊厳なる夕陽”を望む皆さまの心もまた、“美しき宝の心”となっていると」
フィリピン広布60周年の本年、マニラ首都圏の友は、師弟不二の「宝の心」で、さらなる広布拡大の歴史をと誓っている。