◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第3巻 基礎資料編 

物語の時期 
1961年1月1日~2月14日

雲の井に
 月こそ見んと
  願いてし
 アジアの民に
  日(ひかり)をぞ送らん

 この和歌を聞くと、伸一の心は踊った。それは、1956年(昭和31年)の年頭に、戸田が詠んだ懐かしい和歌であった。
 ――雲の切れ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遥かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
 ここでいう「月」とは釈尊の仏法であり、「日」とは日蓮大聖人の仏法をさすことはいうまでもない。
 戸田は、「諫暁八幡抄」などに示された、大聖人の「仏法西還」の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
(「仏法西還」の章、9ページ)


「仏法西還」の章
 1961年の元旦、山本伸一は自宅で「元朝に 祈るアジアの 広布かな」と認め、妻の峯子に贈る。この1月には28日からの18日間、香港、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジアへの平和旅を控えていた。
 学会本部で行われた初勤行の席上、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日(ひかり)をぞ送らん」との戸田城聖の和歌が紹介された。翌2日、伸一は、その東洋広布を熱願していた戸田の墓前で、アジア初訪問の出発を報告する。
 アジア訪問の折、「仏法西還」の先駆けの証しとして、釈尊の成道の地であるインドのブッダガヤに、御書の「三大秘法抄」や、「東洋広布」の石碑などを埋納するため、同行のメンバーが奔走する。伸一は渡航前の多忙な日々の中で、九州の3総支部合同の結成大会、両国支部、宇都宮支部、城西支部、都南支部、江戸川支部など、各地の支部結成大会を中心に指導に駆け巡る。
 1月28日、香港に降り立った伸一は、座談会で、海外ではアジア初の地区を結成。「香港を東洋の幸福の港にしていこう」との期待を寄せる。


「月氏」の章
 香港を発ち、次の目的地に向かう機中、伸一は同行の幹部に、近い将来、アジアに総支部をつくりたいとの考えを打ち明ける。戸惑う幹部に対し、「まず構想を描く。そして、そこから現実をどう開いていくかを考えていくんだ」と、現状追随的な意識を打破することを訴える。
 シンガポールを経由し、セイロンへ。そこでは、一人の青年を激励し、男子部の隊長に任命する。
 いよいよインドに到着した一行は、イスラム王朝のクトゥブの塔や、デリー城などを視察。マハトマ・ガンジーを荼毘に付したラージ・ガートに立ち寄り、インドを独立に導いた非暴力の闘争に思いを巡らす。また、アショーカ大王の法勅を刻んだ石柱の下では、仏法を根底にした政治について語り合う。
 タージ・マハルやアグラ城などを巡り、2月4日、ブッダガヤに入る。管理委員会の許可を得て、大菩提寺の境内に、「東洋広布」の石碑や「三大秘法抄」などを埋納する。戸田に誓った東洋広布へ、第一歩を踏み出した伸一は、仏教発祥のインドの地で、”出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ” と心で叫ぶ。


「仏陀」の章
 埋納を終えた一行は、大菩提寺の周辺を散策。釈尊ゆかりの場所を訪ねた伸一は、人類を生命の光で照らした、その生涯に思いをはせる。
 釈迦族の王子として生まれた釈尊は、生後間もなく母を亡くす。万人が避けることのできない老・病・死の問題を解決するため、彼は王家の生活を捨て、出家の道に進む。
 禅定や苦行に励むが悟りを得られなかった釈尊は、尼連禅河を渡り、菩提樹の下で深い瞑想に入り、思念を凝らす。
 次々と襲う欲望への執着。飢え、眠気、恐怖、疑惑と戦い、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、感動の中に、永遠不変の真理である「生命の法」を覚知。ついに大悟を得て、仏陀となる。
 彼は、悟った法を説くべきか否か、悩み苦しんだ末に、民衆の中に入って法を説くことを決意する。
 六師外道たちからの迫害にも、提婆達多の反逆にも屈せず、愛弟子の舎利弗、目連との死別の悲しみをも乗り越え、最期の一瞬まで人々を教化した。
 伸一は、その生涯を思い、自らも命の燃え尽きる時まで、わが使命の旅路をゆくことを誓う。


「平和の光」の章
 ガンジス川を訪れた伸一は、居合わせた身なりの貧しい子供たちとの交流を通して、世界各地の繁栄と平和を念じた戸田の遺志を継ぐ、自身の使命と責任の重さを感じる。その後、寺院や博物館を見学した一行は2月7日、8日間滞在したインドを離れ、ビルマへと向かう。
 伸一は、ビルマで戦死した長兄をしのびつつ、日本人墓地で戦没者の追善法要を行う。彼の胸には、長兄との思い出が次々と去来する。割れた母の鏡の破片を大切に分け合ったこと。出兵先から一時帰国した兄が、憤懣やるかたない様子で戦争の悲惨さを訴えたこと。その兄の戦死の報を受け、背中を震わせながら母が泣いていたこと――。
 戦没者の冥福を願う祈りは、恒久平和への強い誓いとなっていた。
 その後、一行は、タイ、カンボジアを訪問。アジア各地で日本軍による戦争の傷跡を目にした伸一は、一人の日本人として、「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと決意する。東洋の哲学・文化・民族の研究機関や、音楽などの交流を目的とした団体の設立を構想。一切の行程を終え、2月14日、帰国の途に就く。

◆世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ  第3巻 名場面編
 


今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第3巻の「名場面編」。心揺さぶる感動の名場面を紹介する。次回の「御書編」は19日付、「解説編」は26日付の予定。(「基礎資料編」は5日付に掲載)

▼広布の使命に生き抜け

 〈1961年1月28日、山本伸一はアジアへの平和旅の第一歩を香港にしるした。翌29日、次の訪問地・セイロン(スリランカ)に向かう出発間際まで、同志に励ましを送る〉
 彼(山本伸一=編集部注)はメンバーに言った。
 「まだ、香港にいるのは十数人の同志にすぎない。しかし、二、三十年もすれば、何万人もの同志が誕生するはずです。皆さんが、その歴史をつくるんです。
 一生は夢のようなものです。一瞬にして消えてしまう、一滴の露のように、はかないものかもしれない。しかし、その一滴の水も、集まれば川となって大地を潤すことができる。どうせ同じ一生なら、広宣流布という最高の使命に生き抜き、わが栄光の人生を飾ることです。そして、社会を潤し、永遠の幸福の楽園を築いていこうではありませんか。
 アメリカの同志も立ち上がりました。ブラジルの同志も立ち上がりました。今度は、香港の皆さんが、東洋の先駆けとして立ち上がる番です。私と一緒に戦いましょう!」
 (中略)
 やがて、飛行機は飛び立った。飛翔する機の窓に、そそり立つ褐色の岩肌の山が見えた。獅子山(ライオン・ロック)である。今、香港の天地に、師子の子らが目覚め立った。だが、その力は、まだ、あまりにも小さかった。
 しかし、いつの日か香港は、新しき東洋の世紀を開く広布の大師子となることを、伸一は確信することができた。(「仏法西還」の章、79ページ~81ページ)

▼出でよ! 幾十万の山本伸一
 〈61年2月4日、釈尊成道の地ブッダガヤで、「東洋広布」の石碑などを埋納する儀式を行う〉
 月氏の天地に、朗々たる唱題の声が響き渡った。山本伸一は、東洋の民衆の平和と幸福を誓い念じながら、深い祈りを捧げた。埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。
 (中略)
 今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。
 伸一は、戸田城聖を思い浮かべた。彼の胸には、恩師のあの和歌がこだましていた。
 雲の井に 月こそ見んと 願いてし
   アジアの民に 日をぞ送らん
 この歌さながらに、空には太陽が輝き、そびえ立つ大塔を照らし出していた。彼は、師・戸田城聖への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。
 アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、伸一にも測りかねた。しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。
 “私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ”
 月氏の太陽を仰ぎながら、彼は心で叫んだ。(「月氏」の章、161ページ~163ページ)

▼釈尊が「生命の法」を会得
 いつしか、明け方近くになっていた。東の空に明けの明星が輝き始めた。
 その瞬間であった。無数の光の矢が降り注ぐように、釈尊の英知は、不変の真理を鮮やかに照らしだした。彼は、胸に電撃が走るのを覚えた。体は感動に打ち震え、頰は紅潮し、目には涙があふれた。
 “これだ、これだ!”
 この刹那、この一瞬、釈尊は大悟を得た。遂に仏陀となったのだ。彼の生命の扉は、宇宙に開かれ、いっさいの迷いから解き放たれて、「生命の法」のうえを自在に遊戯している自身を感じた。この世に生を受けて、初めて味わう境地であった。
 釈尊は知ったのだ。
 ――大宇宙も、時々刻々と、変化と生成のリズムを刻んでいる。人間もまた同じである。幼き人も、いつかは老い、やがて死に、また生まれる。いな、社会も、自然も、ひとときとして静止していることはない。
 その流転しゆく万物万象は、必ず何かを縁として生じ、滅していく。何一つ単独では成り立たず、すべては、空間的にも、時間的にも、連関し合い、「縁りて起こる」のである。
 そして、それぞれが互いに「因」となり、「果」となり、「縁」ともなり、しかも、それらを貫きゆく「生命の法」がある。
 釈尊は、その不可思議な生命の実体を会得したのであった。彼は、自身が、今、体得した法によって、無限に人生を開きゆくことが確信できた。
 (中略)
 彼方には、朝靄を払い、まばゆい朝の太陽が昇ろうとしていた。それは、人類の幸福と平和の夜明けの暁光にほかならなかった。(「仏陀」の章、181ページ~183ページ)

▼発展の源泉は“励まし”に
 ホテルには、戸田城聖が、生前、懇意にしていた実業家が宿泊していた。伸一もよく知っている人物であった。
 夜更けて、この実業家が、伸一の部屋を訪ねて来た。二人の話題は、戸田の思い出になっていった。
 「山本さん、戸田さんのすばらしいところは、学会を組織化したことではないだろうか。そうしなければ、学会はここまで発展しなかったと、私は思う。これからは組織の時代だ。組織があるところは伸びる」
 伸一は言った。
 「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、組織化すれば、うまくいくかといえば、逆の面もあります。組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです。
 (中略)
 戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。具体的にいえば、会員一人ひとりへの励ましであり、指導です。
 (中略)
 苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、信心によって立ち上がることができたという事実――これこそが学会の発展の源泉です。
 同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、皆に深い尊敬の念をいだかせていたんです」(「平和の光」の章、264ページ~266ページ)

▼雛人形の思い出
 母の芯の強さを物語る、こんな思い出がある。
 ――戦争末期のことだ。蒲田の糀谷にあった家が、空襲による類焼を防ぐために取り壊しが決まり、強制疎開させられることになった。やむなく、近くの親戚の家に一棟を建て増して、移ることにした。
 家具も運び込み、明日から皆で生活を始めることになった時、空襲にあった。その家も焼夷弾の直撃を受け、全焼してしまった。かろうじて家から持ち出すことができたのは、長持一つだった。
 翌朝、途方に暮れながら、皆で焼け跡を片付けた。生活に必要な物は、すべて灰になってしまった。ただ一つ残った長持に、家族は期待の目を向けた。
 しかし、長持を開けると、皆、言葉を失ってしまった。中から出てきたのは雛人形であった。
 その端に、申し訳なさそうに、一本のコウモリ傘が入っているだけであった。
 長持を、燃え盛る火のなかから、必死になって運び出したのは、伸一と弟である。伸一は全身の力が抜けていく思いがした。
 家族の誰もが、恨めしそうな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。
 その時、母が言った。
 「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ……」
 母も、がっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まされ、家族の誰もが、勇気が湧くのを覚えた。
 焼け跡に一家の笑い声が響いた。
 母の胸には、“負けるものか!”という、強い闘志が燃えていたにちがいない。(「平和の光」の章、292ページ~293ページ)
 

◆〈信仰体験〉 海外からも注目の“サロネーゼ” 
 未来をつかむ決意の祈り 自宅のリボン教室から起業 本年、夫が入会 


【福岡市】 自宅をサロン(教室)にして、手芸や料理などの講座を開く女性を「サロネーゼ」という。檢見﨑亜衣さん(38)=豊浜支部、副白ゆり長=は、注目のサロネーゼの一人。ハンドメイドのバッグや、リボンウオッチ(リボンをバンドにした腕時計)といった小物の作り方を、同世代の女性を中心に教えている。

 きっかけは3年前、幼稚園に通っていた長女・瑛さん(7)=小学1年=に作ってあげたいと近所の教室に通い、リボン講師の資格を取ったこと。
 自分でデザインしたバッグが、ママ友の間で評判になり、「教えてほしい」との声が殺到。ママ友同士の憩いの場にもと、自宅でリボン細工を教えるようになった。
 信心強盛な両親のもとで育った。進路に悩んだ学生時代、女子部の先輩から受けた励ましに決意し、学会活動に取り組むように。
 心に刻む御書は、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(769ページ)。どんな相手も、自分を映す鏡だと思って、誠実に接することがモットー。講師となってからも、受講者が理解するまで丁寧に教え、評判が広がっていく。
 ある日、作品をSNS(会員制交流サイト)に投稿すると、関東の有名なサロネーゼの目に留まり口コミがさらに拡散。技術を学びたいと、海外からも要望が届くように。作り方を収録した動画や、自作のテキストを用いた通信レッスンを開講。これまでに、1700人を超える新たな講師を輩出してきた。
「学会っ子として、池田先生の弟子として、“広宣流布の実証を示す自分に”との祈りを忘れずに、進んできました」
 こうしたサロネーゼとしての活躍の一方で、檢見﨑さんは、ある悩みと向き合っていた。
 それは、夫・裕さん(57)のこと。看護師として働いていた病院で、麻酔科の医師をしていた裕さんと知り合い、2007年(平成19年)に結婚。当初から「一緒に信心をしたい」と伝えていたが、なかなか首を縦に振らなかった。「妻にとっては、夫である自分よりも信仰のほうが上にあるように見えて」と裕さん。
 転機は11年、裕さんの母が間質性肺炎となり人工呼吸器をつけた治療の状態に。途中で肺気胸を起こし、一時は命も危ぶまれたが、徐々に容体は回復。退院することができた。この時、檢見﨑さんから、地元の学会員が皆で回復を祈ってくれていたことを聞く。学会の温かさに触れ、2年後にまずは裕さんの両親が入会した。
 今年から裕さんは、脳疾患を専門とする県内の新しい病院へ移ることに。不安も感じていた3月、地域のドクター部員が励ましに来てくれ、親身に真心を尽くす姿に感銘を受けた。
 次の日、新たな職場を視察に訪れた時のこと。近くの川沿いを歩いていると、石の上で甲羅を天日に干すカメの親子が目に飛び込んできた。
 それを見て思った。“どんな時も、家族は一緒の場所で歩むことが大切なんじゃないか”。自分でも驚いたが、そこで決意が固まった。
 翌朝、「入会したい」と伝えられた檢見﨑さんの歓喜が爆発。感動で「ママは泣いてた」〈長男・慧さん(9)=小学4年〉
 4月2日に入会。次の日から朝は、裕さんが中心で、皆で勤行をして一日をスタートしている。「家族が健康でいてくれることが何よりありがたい。体が心配ですけれども、妻の事業も応援していきたい」
 檢見﨑さんのサロンは、「株式会社K’s collection」として11月からさらなる飛躍を遂げ、来年、美容分野と併せた新たな事業展開が決まった。
 「これからは家族で一つの大きな車輪になって、広宣流布へ前進していきます!」。そこには、晴れやかな母の勝利の笑顔があった。

◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第3巻 御書編
 

 

                                                                                                                                       


【挿絵】内田健一郎

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第3巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の「私の読後感」を紹介する。次回の「解説編」は26日付の予定。(「基礎資料編」は5日付、「名場面編」は12日付に掲載)


大聖人の御遺命を学会が実現

【御文】 月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり (御書588ページ、諫暁八幡抄)
【通解】 月は西から出て東へ向かう。それは月氏の仏法が東の方へ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国に還るという瑞相である。

●小説の場面から
 〈1961年1月、山本伸一はアジア歴訪の旅へ。恩師・戸田城聖の悲願である「東洋広布」の第一歩をしるす〉
 「諫暁八幡抄」のほか、「顕仏未来記」などにも、同様の趣旨の御文がある。いずれも、日蓮大聖人の仏法の西還を予言され、東洋、世界への広宣流布を示されたものである。
 戸田城聖は、その御聖訓の実現を、創価学会の使命として、伸一をはじめとする青年たちに託した。
 もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、虚妄となってしまったにちがいない。
 その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、踏みだそうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。(「仏法西還」の章、30ページ)                                                                                            ◇ 
 「大聖人の御予言も、それを成し遂げようとする人がいなければ、観念になってしまいます。広宣流布は、ただ待っていればできると考えるのは誤りであると思います。
 御予言の実現は、後世の人間の決意と大確信と必死の行動が根本となります。御予言とは、弟子の自覚としては、そう“なる”のではなく、そう“する”ことではないでしょうか。そうでなければ、人間の戦いはなくなってしまいます。また、そのようにとらえて戦いを起こしたものにとっては、御予言は、最大の確信となり、勇気となり、力となります」(「月氏」の章、102ページ)


一瞬一瞬を“命を削る思い”で
【御文】 一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(御書790ページ、御義口伝)
【通解】 一念に億劫の辛労を尽くして、自行化他にわたる実践に励んでいくなら、本来わが身に具わっている仏の生命が瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。

●小説の場面から
 〈アジアの平和旅の終盤、疲れをにじませる同行の幹部に、山本伸一は御書をひもとき、励ましを送る〉
 伸一は、力を込めて語っていった。
 「これは、南無妙法蓮華経と唱えるわが一念に、億劫にもわたる辛苦、労苦を尽くし、仏道修行に励んでいくならば、本来、自身のもっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間、起こってくるとの御指南です。
 そして、南無妙法蓮華経と唱えていくこと自体が、精進行であるとの仰せです。
 この御文は、御本仏である大聖人の御境涯を述べられたものですが、私たちに即していえば、広宣流布のために苦労し、祈り抜いていくならば、仏の智慧が、大生命力がわいてこないわけはないということです。
 したがって、どんな行き詰まりも打ち破り、大勝利を得ることができる。しかし、それには精進を怠ってはならない。常に人一倍、苦労を重ね、悩み考え、戦い抜いていくことです。
 皆、長い旅の疲れが出ているかもしれないが、今回の旅は、東洋広布の夜明けを告げる大切なアジア指導です。一人でもメンバーがいたら、命を削る思いで力の限り励ますことだ。そこから未来が開かれる。
 また、各地を視察しながらも、その国の広布のために、何が必要かを真剣に考えていかねばならない。ボーッとしていれば、この旅は終わってしまう。一瞬一瞬が勝負です」(「平和の光」の章、314~315ページ) 


ここにフォーカス/仏法の生死観
 『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章が始まったのは、1995年1月1日からです。その16日後の1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、6434人もの生命が奪われました。
 震災後、2月2日付の「仏法西還」の章から、山本伸一が仏法の生死観を語る場面がつづられていきます。
 その中で、伸一はこう述べています。「広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない」「信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる」
 東に伸び、東に傾いた樹木が、倒れる時には東に倒れるように、信心に励んできた人は、事故等で不慮の死を遂げても、善処に生まれるというのが、仏法の法理なのです。
 95年2月2日は、海外での諸行事を終えた池田先生が、関西を訪問した日です。4日の追善勤行法要で、先生は「悪い象に殺された場合は地獄等には堕ちない。悪知識に殺された場合は地獄等に堕ちる」との経文を通し、「震災等で亡くなられた場合も、悪象による場合と同じく、絶対に地獄に堕ちない」と渾身の励ましを送りました。
 先生の激励と小説に記された仏法の生死観は、大切な人を失った方々の心に、大きな希望をともしたのです。


私の読後感 識者が語る/インド文化国際アカデミー ロケッシュ・チャンドラ理事長
●魂の飛翔を促す一書
 『新・人間革命』第3巻「仏陀」の章で描かれた釈尊は、池田先生の釈尊観ともいえましょう。それは、人生の問題を抱えながら、それらに立ち向かう“人間・仏陀”を、そしてまた、生命の不変の本質を浮かび上がらせています。
 釈尊は、自身の教えを、聴衆が理解できる能力に応じて説きました。池田先生は、「価値創造」の人生の素晴らしさを、私たちが納得し、理解できるように訴えておられます。先生は、世界中に人間革命の哲学を広げられた「ヒューマニズムの啓発者」です。
 仏陀は人間であり、人類の偉大な教師である――この釈尊に対する先生の視点は、先生ご自身を言い表しているように思えてなりません。
 先生の描かれた釈尊の生涯をたどると、釈尊と共に人生を生きているかのように感じます。まさに、先生は釈尊の精神を現代に蘇らせ、その力を読者に送っておられるのです。
 仏教は外在的な神ではなく、人間が中心です。また、何より日々の生活を重視し、人生の向上と幸福を強調しています。『新・人間革命』では、その一切の根本である生命の偉大さを語っています。
 インドでは、数世紀前に仏教は廃れてしまいました。しかし、仏教の精神性は、インドの未来を豊かにするものです。池田先生が訴える創価の哲学も、インド社会の発展の中核をなす時代精神になりつつあります。
 これまでの「革命」の歴史の多くは、暴力によるものでした。そこでは、人間があたかも最大の敵のように扱われてきました。それに対して、『新・人間革命』は、朝の清新な大気のように、私たちの精神を健やかにし、新たなビジョンを示しています。
 すなわち、私たち一人一人が人生という作品を完成させる「人生の彫刻家」であり、皆が社会という全体において、欠かすことができない存在であることを明らかにしているのです。
 『新・人間革命』は、「価値創造の人生」へ、魂の翼を広げることを促す「目覚めの一書」です。池田先生は人類の精神に、生命の讃歌を呼び起こしているのです。 
 心地よき 穏やかな森へ
 想像が天空に浮かび上がる庭園へ
 あなたは人類を
 英知輝く崇高なステージへと誘い
 宇宙文明の地平の遥か彼方へと導く
 Lokesh Chandra インド文化国際アカデミー理事長。仏教文化研究の世界的権威の一人。池田先生とは、対談集『東洋の哲学を語る』(第三文明社)を発刊している。
 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

◆〈世界広布の大道――小説「新・人間革命」に学ぶ〉 第3巻 解説編 
 紙上講座 池田主任副会長


〈ポイント〉
①「仏法西還」の意味
②広宣流布の「時」を創る
③仏法者への迫害の構図

インドの首都ニューデリー(1992年2月、池田先生撮影)。先生の訪印は5回。第3巻では、初訪問の様子がつづられている

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第3巻の「解説編」。池田博正主任副会長の紙上講座とともに、同巻につづられた珠玉の名言を紹介する。次回は、第4巻の「基礎資料編」を明年1月9日付に掲載予定。(第3巻の「基礎資料編」は12月5日付、「名場面編」は12日付、「御書編」は19日付に掲載)

 「東洋広布」――それは、日蓮大聖人の「仏法西還(=末法には、太陽が東から西に向かうように、大聖人の仏法が日本からインドに還り、全世界へと流布していく)」の原理を踏まえ、戸田城聖先生が山本伸一をはじめ、後継の青年たちに託した願業でした。
 『新・人間革命』第3巻を学ぶにあたって、まず仏法西還の意味について確認していきたい。
 1951年(昭和26年)7月11日、男子部結成式の折、戸田先生はこう語られました。「広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります。(中略)日蓮大聖人は、朝鮮、中国、遠くインドにとどまることなく、全世界の果てまで、この大白法を伝えよ、との御命令であります」(42ページ)
 この戸田先生の東洋広布の決意を詠んだのが、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」との和歌でした。
 師の決意は、山本伸一の誓願となりました。男子部結成式から10年後の61年(同36年)1月、伸一はアジア初訪問の旅に出発します。その意義こそ、「大聖人の御予言である、“仏法西還”の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くこと」(29ページ)にありました。
 同年2月4日、インドのブッダガヤに「東洋広布」と刻まれた石碑などを埋納する儀式が行われました。この時、伸一の胸にこだましたのが、先の戸田先生が詠んだ和歌でした。
 東洋広布の第一歩を踏み出した伸一は、心の中で叫びます。「私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ」(162ページ)と。
 つまり、「仏法西還」の章には、①大聖人の御予言②戸田先生が東洋広布を誓う③師の誓いを弟子・伸一が受け継ぐ④分身たる“幾万、幾十万の山本伸一”に託していく、との方程式が記されています。私たちは、池田先生から新時代の広布を託された深き使命があることを心に刻みたいと思います。


地涌の使命の自覚
 第3巻では、広宣流布における「時」の捉え方が示されています。
 「月氏」の章で、伸一は「御予言の実現は、後世の人間の決意と大確信と必死の行動が根本となります。御予言とは、弟子の自覚としては、そう“なる”のではなく、そう“する”ことではないでしょうか」(102ページ)と述べています。広宣流布の「時」とは、ただ待っているだけでは決して来ない。地涌の使命に立った弟子の決意と行動によって「時」は創られるのです。
 また、第3巻には、広布推進の方法についてもつづられています。
 「平和の光」の章に、タイで迎えてくれた2人の日本人メンバーの壮年との語らいを通して、「学会の広宣流布は、国力をバックにしての布教でもなければ、宣教師を送り込んでの布教でもない。その地に生きる人が信仰に目覚め、使命を自覚するところから始まる、民衆の内発性に基づいている」(313ページ)とあります。
 皆が使命に奮い立つように、伸一は全力を注ぎました。その象徴的な場面の一つが、香港の岡郁代への励ましです。彼女は①夫が未入会②子どもが3人いる、という状況の中で信心に励んでいました。
 伸一は彼女に、「自分の家族の折伏は、理論ではなく、実証がことのほか大切になる。特に人間的な成長が肝要です」(78ページ)と励ましを送ります。
 彼女の子どもには、「あなたが、香港に来たのは、お父さんの仕事の関係で、たまたま来たのではない。その広宣流布の使命を果たすために来たんです」(72ページ)と、未来を見据え、使命の自覚を促しています。
 伸一がアジアの平和旅で最初に訪問した香港は、20世紀最後の海外訪問地でもあります(2000年12月)。
 『新・人間革命』第30巻(下巻)の「誓願」の章に、香港初訪問の思い出をたどり、21世紀の東洋広布の道が洋々と開かれていることが記されています。
 伸一の心をわが心とする同志の奮闘によって、わずか40年ほどで香港広布は飛躍的に発展したのです。


学会の根本目的
 「月氏」の章の中では、インドのアショーカ大王の政治について触れられています。そこでは、大王が仏教を国教化しなかった理由として、「思想や信教の『自由』を守ろうとしたからではないか」「宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか」(130ページ)と考察しています。
 ここで「創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」(131ページ)とあるように、「信教の自由」をはじめ、基本的人権を抑圧する暴挙とは、徹底して言論で戦い抜く。それが、学会の社会的使命です。
 また「仏陀」の章では、釈尊の迫害の人生が詳細に描かれています。釈尊は、六師外道からの迫害、提婆達多の反逆にも屈せず、最期まで人々に法を説いていきます。
 その中で「信仰によって結ばれた人間の絆は、利害によるものではなく、『信頼』を基本にした良心の結合である」(211ページ)とあります。この「信頼」を破壊するための常套手段がスキャンダルです。釈尊が受けた「九横の大難」にも、スキャンダルがありました。下劣なデマを捏造し、人々に不信をいだかせるという手法はいつの世も変わりません。
 この「仏陀」の章の連載が聖教新聞で始まったのは1995年4月からでしたが、直前の3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きています。この事件をきっかけに、宗教に対する統制を強めようとする社会的な動きが出てきます。それは後に、宗教法人法改変へとつながっていきました。
 「仏陀」の章は、当時、卑劣なデマ・中傷にさらされていた学会員への励ましであったと同時に、迫害の構図を後世にとどめようとされたのだと思えてなりません。
 「平和の光」の章では、仏法者の使命について、こうつづられています。
 「本来、仏法者の宗教的使命は、人間としての社会的使命を成し遂げていくことで完結される。それができてこそ、生きた宗教です。仏法は観念ではない。現実のなかで、人間の勝利の旗を打ち立てていくのが、まことの信仰です」(318ページ)
 創価学会の根本目的は立正安国、すなわち社会の繁栄と人類の平和の実現にあります。私たちは、友好の語らいを朗らかに広げ、地域に幸福のスクラムを築いていきましょう。


名言集

●まことの功労者
 一人の人が成長し、人材に育っていく陰には、親身になって、育成してくれた先輩が必ずいるものだ。たとえ、光があたることはなくとも、その先輩こそが、まことの功労者であり、三世にわたる無量の功徳、福運を積んでいることは間違いない。(「仏法西還」の章、55ページ)

●正しい認識を促す直道
 地味なようでも、一対一の深き誠実な語らいこそが、詮ずるところ、学会への正しい認識と評価をもたらす直道だ。(「月氏」の章、129ページ)

●師の生命の脈動
 師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流布に生きる、師の生命の脈動が流れ通うといってよい。(「平和の光」の章、325~326ページ)
 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。