こんばんは。実は今日は違うブログを上げる予定でしたが順番を変えてみました。

 

瀬谷松栄塾田中です。

 

 

 

昨日少し思うことが有り、自分の考えを整理する意味も含めて文章化しようと考えました。

 

 

 

基本方針、というのはブレてはいけないものです。ただ、変化はしてもいいものでもあるのかなあ、と思っています。

 

自分が間違っているのか!?という迷い自体は生徒にも伝わってしまいますし、そうなると効果も減少する、という現実はありますが、大人だって迷うんだよ。指示待ちでやっているわけでなければ、また外部からなにか指摘されることも少なければ。当然その迷いは発生するし、しなければいけない。迷わなければいけない。

 

・・・なぜ迷わなければいけないのか?

 

 

「すべて自分が正しい」と行動することは、間違いを修正しにくくなりますし、歳をとればとるほど「今までの価値観以外を認めたくない」という気持ちが出てくるだろう、と思っているからです。もともとが頑固な人間なので余計に。

 

 

指導としては、「自分で考えて解答にたどり着けるようにすること」を基本として、そのための仕掛け、をいろいろと工夫している「つもり」です。

ピタッとはまる生徒はどんどんできるようにもなりますが、一方でペース管理は苦手とするケースが増えやすいので(1問に時間をかけすぎる)、そういうところは気を配るようにはしていますが、仕組みでもう少しどうにかならないかなあ、と考えています。

 

改善の余地は十分あるかもしれません。そのために他塾に勉強しにいくこともあります。

 

どうやって改善するか、を深く練らない状態で試行錯誤はできません。生徒は実験台ではないですからね。とはいえ、どうしても練って変更したとしても、その最初に関しては成功失敗に関わらず実験台になってしまう事実はあるのですが。

 

また、ハマらない生徒に関してはどうするか?も深く考える必要があります。

受け入れない。も選択のひとつかもしれませんが、それは最終手段にしたい。ということは私自身が引き出しを増やす必要がある。これは間違いない。

基本的には「自学自習ができるようになってほしい」。そのための手助けとしてこの場所がある。と考えているわけですが、じゃあニーズとこの価値観って合致するか、というと

 

正直 最初のころは全く合致しなかったですね。

 

 

自学自習ができるようになる。ということ自体は、最終的に大学受験を見越しているわけですが、そもそも大学に進みたい、という生徒自体が、当塾に来られる生徒の中では体験生含めて3:7くらいの印象。そうすると、「とりあえず高校に入れればいい」という選択も当然出てくるわけで、そういう子自身は「自分で学習ができる」ことに対してのメリットを考えにくいケースも多く(実際は就職してからも自学自習できるかは大きな武器になるかとは個人的には思うのですが)。これを伝えていくことの必要性と、残された時間でやらなければならないことのバランス感覚は常にもっていないといけない。

 

 

開業して年月が経つと、徐々に学力が高い生徒も増え始めてきました。将来的に大学に行きたい、という気持ちを持った生徒に対しては、ここをぶらさずにやっていきたいと思います。

 

 

 

・自分が間違えた部分がどこなのか、勘違いしてた知識はどこなのかを自分で発見しようとしてみること。どこが間違いなのかわからない場合は必ず質問すること。

・教わったことは忘れるのは当たり前だから、覚えるだけでなく理解することも重視すること。

・忘れないようにメモを取ること。忘れてしまったらそのメモを見返すこと。

 

 

これが基本行動なのですが、チューターのいる自習室と変わらないような気もします。

 

 

でも、勉強の仕方って、こういうことの、小さなことの積み重ねだと思うのです。

 

 

 

ただ、この通りにできない、うまくいかないこともある。

 

それについて説明し、納得してもらい、取り組んでもらう。

 

それでもうまくいかない。そんなこともある。

 

 

でも常に、「どうすればできるか?」を考える。

 

 

考えるということを教えるのは本当に難しいです。

 

思考を見てもらうことはできませんからね。

 

 

「下手の考え休むに似たり」

 

とうことわざもありますが、「考える」ということを自分自身はしている、と思っていても、「うーん」と頭の中で唸っているだけで、その実なんも考えていない、そんなこともあるはずです。

 

 

だから、下手でもいいから考えを言語化してみたり整理してみたり。たとえば間違いの理由が発見できない時に、正解と不正解の間にどんな違いがあるのか、を思考してみたり。こういうことができない状態での「考えてます」は時間の無駄にもなりかねないので、考えるためのヒント、というのは出していきたいと思います。

 

そういうことができると、たとえば今の私のように、悩み始めたときに「原点に返る」ということも習慣化できるかもしれない。

そうなると、その子の人生が最終的により良いものになるんではないか、と。

 

 

一方で、指摘・注意をされすぎることにより、心を折ってしまい、逆に悪いものになってしまう可能性もある、ということにも考えを巡らせねばなりません。

 

人格否定をするつもりはなくても、相手にそう捉えられてしまったら、それは指導として間違いなのは事実です。

 

たとえば、「なぜこういう処理したのか」ということを聞くことがあります。

この「なぜ」という言葉には圧迫感がある、と言われたこともあります。

 

私としては純粋に「どういう思考でこういうことを考えたのか」を聞きたいだけですし、聞いたうえで思考のズレを指摘したいだけなのですが、詰問されている、と思われてしまうことがあります。言い方がよくないのもあるでしょう。そこは修正しなければなりません。

 

ただ、間違えた思考に根拠があるなら、その根拠を聞いてみたいし、なぜその思考が誤りなのかも指導したい。これは私の自己満足かもしれない。これが今回悩んでいるところ。

何も考えないでやった、といわれたら、それはそれで「なんで?」と聞いてしまうかもしれない。

「ここにはできないことをできるようになるために来ているなら、適当にやるなら時間と労力の無駄じゃない?だったらやらなくていいんじゃない?」と、嫌味に聞こえるかもしれませんが、嫌味じゃなくて本気でそう思うんですよ。時間とお金無駄になっちゃう。

 

「ここはこうじゃなくてこうすればいいんだよ」と教えるのは簡単。

 

でもそこに気付きはあるのかな。

いやでも気付き必要なのかな、ルール通りに処理できる、じゃダメなのかな。

 

こんなことをたまに脳内で言い合いします。

 

 

 

それでもやはり、「とりあえず高校にぶち込めればいいんでしょ」という思いは絶対に持ちたくないし、どうせやるなら

 

私のことは嫌いになっても、学ぶということでここで得た技術は忘れないでください!

 

と泣きながら訴えたい。

 

 

常々生徒とはガチンコでぶつかりたい、と思っていますが、本気の本気でガチンコしたら、壊れてしまいます。胸を貸す、という横綱相撲の姿勢を忘れてはいけない、そう反省するべきことがありました。

 

 

自戒を込めて、記録として残します。

 

 

 

瀬谷松栄塾