フランス王家に乗り込んだメディチ家の女 vol.1
さて、信州美術館巡りを書くのが少し飽きたので、
ちょっと一休みして、メディチ家(雑)研究の話に戻します。
(陰の声:ごっこスーラは飽き症ですみませんね(^_^; )
今回は通史から少し脱線し、エピソードとしてメディチ家の女性達の話です。
まず、お一人目はこの方です
カトリーヌ・ド・メディシス(フランス語読み)
1519-1589年
フランス王アンリ2世の皇后、夫の死後7人の子供のうち
3人の息子がフランス王位を継ぎ、その幼子の摂政(母后)
として宮廷に君臨した、その時代の肖像画
カトリーヌはメディチ家嫡流の豪華王ロレンツォの
曾孫にあたるお姫様だが、両親が早く天国へ逝ったため、
名門お嬢様学院のムラーテ尼僧院で高等教育を受け、
知識が豊富で、料理なども学んだという。
(陰の声:ムラーテ尼僧院って知らないけれど、教育は大切だね。)
その後、いろいろ権謀術数や政略に翻弄されたが、
とうとうカトリーヌはフランス王家にお嫁入りしたのだ。
カトリーヌが伝えた美食と香りの文化
ルネッサンス時代の宴会料理を再現したもの
手前左から、サフラン入り米料理、2色のニョッキとオリーブ、
卵のファルシー、中央はチョウザメのゼリー寄せなど
彼女はラファエロやミケランジェロなどの美術作品で宮殿を飾るだけでなく、
メディチ家から料理人や菓子職人などもパリの宮廷に連れて行き、
さらに、自らも料理してレシピを開発して楽しんだという。
そして、トスカーナ料理のいくつかはフランス料理になったそうだ。
ポピュラーなところでは、ペシャメルソース、オニオンスープ、クレープ、
オムレツ、鴨のオレンジ風味・・・。
(陰の声:ごっこスーラでも知っている基本的なものだね、今のフランス料理は
トスカーナ料理がベースになっているんだな。)
特に、食卓作法で”フォーク”を取り入れたことは『食卓革命」だったと言われる。
(陰の声:そのころのヨーロッパ宮廷ではナイフで肉を引き裂き、
手でつかんでムシャムシャ食べているような野蛮さだったらしいよ。)
香水文化もフランスに持ち込んだんだよ。
香水手箱 (アルジェンティ美術館)
片手で握れるくらいのかわいい小箱、赤く塗った
象牙製で巧みな彫金がさせている。前面には仮面が
掘られ、中には3本の香水瓶が納められている。
フィレンツェから調香師も伴ってきており、その香水は
フランス宮廷の男達を魅惑したという。
このように、文化的な功績は大いに貢献したのではあるが、
彼女の摂政時代はカトリックとプロテスタントの宗教戦争の
真っただ中\(*`∧´)/不運だね。
カトリーヌは中立で平和を願って、両派ともに信仰の自由を承認したと言われるが、
これが裏目に出て、カトリックの反撃を招きフランスの新教徒(ユグノー教徒)の
大虐殺事件(1572年 サン・バルテルミの虐殺)が起こってしまった。
それからは、諸外国の勢力の介入もあり、いわゆるユグノー戦争が
延々と20年以上も続いたのだ。
サン・バルテルミの虐殺 (油彩・キャンバス)
フランソワ・デュボア
平和を望んだカトリーヌが両教徒を集め、融和させようとしたが、
カトリック教徒が会議に集まったユグノー教徒を騙し討ちし数千人
を虐殺したという。
(陰の声:はい、また世界史を思い起こそうね、この両派が和解するのは
1598年のあの有名なナント勅令だよ、テストに出たでしょう?)
しかし、疲れきったカトリーヌは、その前の1589年に天国へ旅発ってしまう。
カトリーヌとともにメディチ家の嫡流の家系も消滅してしまったのだ(>_<)
その上、息子のアンリ3世も暗殺されて、フランス王家のヴァロア朝も断絶してしまった。
フランスはこれより、皆様にもなじみ深いブルボン朝になります。
本当はメディチ家の女性の話は1回にまとめようと思ったのですが、
またまた、長くなってしまいましたので、
二人目のお姫様マリー・ド・メディシス様は次回とさせていただきます。
こんどのお姫様はあの大画家ルーベンスに自分の物語を
21枚も描かせているんだよ・・・
(今、その作品のデータを集めているので、少しお待ちください。(^-^)/
<研究・その8:フランス王家に乗り込んだメディチ家の女 vol.1・つづく>
スーラ・ウタガワの
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