トスカーナ大公国の盛衰
教皇クレメンス7世の息子、フィレンツェ公アレッサンドロが
1537年暗殺されてコジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)の
嫡流家系は断絶してしまった。
すったもんだの末に老コジモの弟の家系から
わずか17才のコジモ・デ・メディチ(コジモ1世)が
フィレンツェ執政に就任しメディチ家を継ぐことになった。
この若造が意外にも(失礼!)傑物で、あれよあれよというまに
貴族達をおさえ、列強を手玉に取り、フィレンツェだけでなく
近隣の領土を加えて「トスカーナ大公国」を誕生させたのだ。
こうしてイタリア中央部に専制君主として君臨したコジモだが、
メディチ家の文芸保護の血は脈々と伝わっていて
フィレンツェの街を今日「屋根のない美術館」と言われる
基礎を作った人なのだ。
ウフィツィ美術館(奥の塔はヴェッキオ宮殿)
元来、行政庁舎だったが、コジモ1世の時代には職人工房となり
その後、美術館となった。
ウフィツィ美術館
最上階にある八角形の間「トリブーナ」
天井には真珠母貝が埋められ、床には半貴石の象眼細工の空間に
絵画、彫刻などメディチ家コレクションがずらりと並んでいる。
ビッティ美術館・サトゥルノの部屋
ラファエロやサンツィーノの作品が多く飾られている。
(陰の声:本当にキンキラキンだね、めまいしそう・・・)
大公の聖母 1504年・油彩・板・64x55cm
ラファエロ
フィレンツェ・ビッティ美術館
2013年春に東京国立美術館「ラファエロ展」に来日しているよ。
この傑作の背景が黒い事についてはいろいろ謎がある。
いわく、痛みが激しいので上から黒塗りした。
確かにレントゲン撮影では、風景が描かれているらしい、
しかし、なぜか茶色一色で描かれているみたいだ・・・
そこで、未完成なのを隠すために塗ったのではないか?
(制作途中でラファエロはローマ教皇によばれてローマに
いったまま死んだという説)
下書きデッサンをみると、最後は当時流行の丸形にする
予定では・・・などなど言われているよ。
また、この「大公の聖母」という題名は、メディチ家滅亡後に
トスカーナ大公になった、オーストリア皇帝家出身の
フエルナンド3世のことで、18世紀末にナポレオン軍の
フィレンツェ占領時にこの絵を肌身離さず持って逃げたこと
からきていると言われます。
トスカーナ大公国はその後、ファランチェスコ1世、フェルディナンド1世と
賢い君主が君臨し、多少宮廷内のゴタゴタはあったものの平和な期間が続いた。
また、歴代君主ともヨーロッパの大国に負けないように宮殿をバージョンアップし
美術品を蒐集したことは言うまでもない。
(陰の声:メディチ家は本当に金儲けの才能と、その使い方を知っているね、
ペストの流行時には尼僧院や修道院を病院にしたり、衛生局をつくつたりも
しているのだ。エライ! どこかの国の政治家や金持ちは見習えよナ(`ε´)
レオナルド・ダ・ビンチとミケランジェロが競作をするはずであったが
二人にローマにトンズラされて、未完成になっていた
パラッツオ・ヴェッキオの壁はヴァザーリとその弟子達に
「シエナ攻防戦」(東壁)と「ピサ攻防戦」(西壁)を描かせて完成させた。
この時代の建築が現在のフィレンツェの重要なモニュメントになって
いるのだ。
しか~し(ごっこスーラ得意の台詞?)
栄える者は必ず滅びる。アホな跡継ぎもおり、周囲の大国・強国に
いじめられ、国内の意見も割れて徐々に衰退して行く。
そんな中でも、いや、そんな状況だからこそかな?
美術品の蒐集や芸術家・科学者の保護にのめり込んでゆくのだ・・・
特筆すべきは、あの「地動説」で有名なガリレオ・ガリレイを
教会の迫害から保護しようとしていたことだ。
しかし、とうとう異端審問にかけられてしまうと、
その罪を軽くする運動もし、その後の幽閉時の面倒もみている。
ガリレオはメディチ家に大変感謝し、自分が発見した木星の4つ衛星に
「メディチ家の星々」と命名したんだよ。
メディチ家の星々(木星の4つの衛星・イメージ図)
20世紀中頃まで、4つ一緒のこの命名であったが、その後、
各星に個別の名前が恒例によりギリシア神話からつけられた。
(陰の声:つまんないの(>_<)
これに答えたのかメディチ家ではガリレオが天国へ往くと、
教会の強力な反対のためなかなか実現しなかったが、
メディチ家滅亡の直前1737年に最後の力を振り絞り、
このような立派な墓碑を建立したのだ。
メディチ家の終焉
15世紀のコジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)から約300年。
メディチ家の主要家系の男子が全員絶えたのち、残ったのは
アンナ・マリア・ルイーザ一人だけになってしまった。
(最後のメディチ)アンナ・マリア・ルイーザ
1667~1743年
初代トスカーナ大公コジモ1世から6代目のお姫様、
ライン選帝公と結婚していたが未亡人となって
フィレンツェに帰ってきていた。
弟の最後の大公ジャン・ガストーネ死去後のトスカーナ大公位は
ハプスブルグ家(ロートリンゲン家)に奪われてしまい、
彼女に許されたのは大公宮殿(パラッツオ・ビッティ)に住むことだけであった。
しか~し、最後のメディチ、アンナは頑張ったよ(^O^)/
彼女はその相続した膨大な財産を”ただ一つの条件”をつけて
ハプスブルグ=トスカーナ大公家に移譲したのだ。
そのただ一つの条件とは
「フィレンツェから一つの美術品も持ち出さないこと」
これだけ・・・
西洋人は契約は守るらしい、
ナポレオンなども一時は略奪しても、落ち着いたら返したという。
彼女のおかげで、美術品は散逸することもなく、今でも世界上の人々を
フィレンツェに引きつけている。
1743年75歳で最後のメディチ、アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは
天国へ・・・
メディチ家は消滅したが、その遺産はフィレンツェとともに存続している。
セイレンのペンダント
(アンナ・マリア・ルイーザが最後まで持っていた
宝飾コレクションから)
Grazie mille, Medici
いや~、どうも10回も長々と連載して申し訳ありませんでした。
1回あたりも結構つまんない文章が延々とつづき、さぞ退屈されたと
思います。
(陰の声:最後まで読んでもらえたかどうか、心配したほうがいいよ。)
でも、まだまだ詳しく書きたかったというのが本心です。
それほど、書く材料はいっぱいありました。
特にトスカーナ大公国の時代は滅びの美しさというものもあるのですが
皆様には退屈だとおもい、はしょってしまいました。
また、機会があれば単発トピックスとして書こうかなと思っています。
しか~し(こればっかし)なにごとも”ほど”が大切だと思いますので
「これくらいで、かんべんしてやるわ」と言い捨てて今回は終わりにします。
*「これくらいで、かんべんしてやるわ」は吉本新喜劇の台詞です。
関西の方はご存知と思いますが、負け犬の謙譲語(?)セリフですので、
怒らないでくださいね。
では、今後とも何を書くかわからない、この「雑記帳」を
お暇な時は覗いてください。おつきあいありがとうございました。
<メディチ家(雑)研究 その10(最終回) :トスカーナ大公国の盛衰・了>
スーラ・ウタガワの
私撰:関西名所図絵・美術館のご案内
このブログの各ページで個別に発表した、スーラ・ウタガワ作品の
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第1室:大阪南部の名所図絵 開館中
第2室:大阪北部の名所図絵 開館中
第3室:大阪湾岸部の名所図絵 開館中
第4室:神戸地区の名所図絵 開館中
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以上、ご案内申し上げます。 館長:スーラ・ウタガワ