河内 許麻神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①境内②境内社③手水舎④狛犬⑤鳥居⑥許麻橋地蔵

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 かつて河内国には大県郡、渋川郡、若江郡にそれぞれ巨麻(こま)郷があった。大県郡には大狛神社(柏原市)があり、若江郡には巨摩廃寺遺跡(東大阪市)がある。

 

 大狛氏は高句麗系の渡来氏族で、天武天皇10年(681)連の姓を賜った大狛造百枝・足坏らが知られる。百枝は持統天皇10年(696)に直広肆を贈位されている。

 

 『新撰姓氏録』(815年)では、高句麗22代国王・安臧王の子とも伝わる溢士福貴君を祖とするものと、高句麗人の伊利斯沙礼斯を祖とするものの二流が伝わる。

 

 高句麗および高麗は、古代において「こま」と呼ばれ、飛鳥時代に日本に伝わった「狛犬」は高句麗から伝わり、獅子を知らない当時の日本人が、そう名付けたという説がある。

 

 その起源は、古代オリエント・インドに遡り、彼らは神や王位の守護神として好んでライオン(獅子)像を用いたといい、スフィンクスもその一例であるという。

 

 日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差はなかったが、平安時代になると、向かって右に口を開いた獅子、左に角を生やし口を閉じた狛犬が置かれるようになる。

 

 鎌倉時代以降、徐々に簡略化され、左右差は口の開き方だけになり、いつしか左右両方の像を合わせて「狛犬」と呼ぶようになった。口の阿吽の形は日本で多く見られる特徴である。

 

 

以下、現地案内板より

 

許麻神社

 

 式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一てある。この地は古く巨麻荘といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。

 境内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。 

 この寺は、聖德太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した。 その後観音院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺にある。

 神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。 

 

八尾市教育委員会

 

 

手水舎の由来

 

 この手水舎は、往古この境内にあった許麻の宮寺久宝寺観音院の鐘楼に由来する。旧記によると、この寺は聖徳太子の建立によるもので、太子自作の十一面観音を本尊としていたと伝えられている。 

 33代推古天皇2年3月 (594年)に勅願所となるが、戦国時代末期の争乱による兵火にかかり灰燼に帰した。

 その後観音院は寛文7年7月(1667年)に再建されるが、明治初年の神仏分離令により廃寺となった。しかし鐘楼は神社の手水舎として移築保存され現在に至っている。 なお釣鐘の消息は不明であるが、その響きは遠く十里の外まで及んだと伝えられている。

 

令和5年4月吉日書