摂津 坂松山 高岳院一心寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①大本堂②納骨堂③本多忠朝の墓④鐘楼⑤南門⑥仁王門

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:大阪市天王寺区

 

 本多忠朝は、天正10年(1582)徳川四天王・本多忠勝の次男として生まれた。母は能見松平家一族の阿知和玄鉄の娘・於久。同母姉に小松姫(真田信之室)、もり姫(奥平家昌室)、同母兄に本多忠政がいる。

 

 天正18年(1590)父は上総大多喜に10万石を与えられる。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに父とともに東海道の本隊に従軍(忠政は中山道の徳川秀忠軍に従軍)し、活躍した。

 

 戦後、父は伊勢桑名藩10万石に移封されると、忠朝に大多喜5万石が与えられた。慶長14年(1609)スペイン領フィリピンから同メキシコへ向かうスペイン船サン・フランシスコ号が上総沖で遭難する。

 

 船は座礁・沈没して大多喜藩領岩和田村に漂着、56名が死亡したが、フィリピン臨時総督の任務を終えたドン・ロドリコら317名の乗員は、地元民に救助された。

 

 忠朝は、数日後ロドリコらを大多喜城に招いて歓待した。また忠朝の紹介で、ロドリコ一行は江戸城に立ち寄り、さらに駿府では大御所・徳川家康と会見している。

 

 家康から三浦按針が建造したサン・ブエナペントゥーラ号の提供を受けて、ロドリコ一行は京都の商人・田中勝助ら23名の日本人とともに、慶長15年(1610)メキシコへ向け出航した。

 

 同年、父が死去に際して1万5千両を忠朝に譲ると遺言するが、忠朝は兄を気遣って辞退、兄もまたこれを受け取ろうとしなかったため、結局は兄弟で折半することにしたという。

 

 忠朝は、慶長19年(1614)大坂冬の陣で、酒を飲んでいたため不覚をとり敗退、家康に咎められた。慶長20年(1615)汚名返上を期した大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで討死した(34歳)。

 

 天王寺口の先鋒を務めた忠朝は、豊臣方・毛利勝永軍に正面から突入した。死に臨み、「酒のために身を誤るものを助けん」と遺言したといい、その死後、「酒封じの神」と崇められた。

 

 遺児・本多政勝は当時2歳だったため、忠政の次男・本多政朝が家督を継いだ。寛永8年(1631)政朝が宗家の家督(姫路藩15万石)を相続したため、政勝が大多喜藩4万石を分与された。

 

 そして政朝が寛永15年(1638)40歳で死去すると、その遺児が幼少だったため、政勝が宗家姫路藩主の家督を継いだ。政勝の死後、本多家は家督をめぐり2分して争うこととなる。

 

 

以下、現地案内板より

 

開山堂

 

一心寺は浄土宗の宗祖法然上人(1,133〜1,212)によって開かれた寺です。文治元年(1,185)の春有名な慈鎖和尚の請により法然上人は四天王寺西門の坂のほとり、すなわち古来「荒陵」とよばれてきた現在の一心寺の地に四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称して止住せられ一心寺発祥の基礎をつくられたのです。この一心寺開山法然上人をおまつりしてあるのが開山堂であります。古来此所に建っておりましたお堂及び法然上人の真影は昭和20年3月の戦災に罹り烏有に帰しましたので昭和48年新しいお堂を再建し開山上人のお木像を造立しておまつりいたしております。

 

 

酒封じ祈願

 本多出雲守忠朝の墓

 

本多出雲守忠朝は徳川家康公四天王の一人といわれた本多忠勝の第二子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜5万石に封ぜられていたが酒を過したため大坂夏の陣(1,615)において戦没した。死に臨んで深く酒弊を悔い 将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。

爾来、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ている。墓碑周辺の杓文字は参拝者による酒封じ祈願、墓碑は元和2年(1,616)に建立されたものである。

 

 

一心寺仁王門縁起

 

この山門は平成9年4月、第十二期お骨佛開眼大法要にあわせて、平成7年より2年をかけて建立されました。仁王尊は彫刻家・神戸峰男氏による5メートル余の青銅像であります。左側・口を開いてい る阿形像は心の邪念を戒め、右側・口を閉じた吽形像は世の紊れを睨んでおります。扉の4人の天女は画家・秋野不矩氏の原画を神戸氏が浮彫りにされました。インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。

インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命のご利益とされます。 

昭和20年に空襲で焼失した旧山門が大坂城玉造り御門の移築と伝えられ、「黒門」とよばれていたことに因んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興いたしました。