陸奥 城生柵 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城生柵跡

 

訪問日:1998年2月

 

所在地:宮城県加美郡加美町(旧中新田町)

 

 昭和30年(1955)に発見された遺跡で、城生柵と呼ばれているが、現在の地名から名づけられたもので、奈良時代の官衙であることは確かだが、玉造柵説、色麻柵説、賀美郡衙説などがあるものの定説はない。

 

 神亀元年(724)蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築いた大野東人は陸奥鎮守将軍となり、天平5年(733)出羽柵を雄物川河口付近(秋田市)に移した。

 

 陸奥按察使を兼任した東人は天平9年(737)男勝村に出征して蝦夷を帰順させ、多賀柵から出羽柵への直通路を開通させた。

 

 続日本紀の同年の記事に多賀柵・玉造柵・色麻柵・新田柵・牡鹿柵(天平五柵)の名が見られるが、当然東人が関わっていたのだろう。

 

 さらに大養徳(大和)守も兼ねた東人は天平11年(739)参議に任ぜられる。

 

 天平12年(740)九州で藤原広嗣が挙兵すると、東人は持節大将軍としてその討伐を命じられ、1万7千を率いて出征して鎮圧し、広嗣を捕らえて処刑した。

 

 功により翌天平13年(741)従四位上から3階級特進して従三位に昇叙したが、その翌天平14年(742)に亡くなった。