若狭 小浜藩川崎台場 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①土塁

イメージ 2②土塁

 

訪問日:2000年7月

 

所在地:福井県小浜市

 

 酒井忠義は文化10年(1813)若狭小浜10代目藩主・忠進の5男に生まれ、天保5年(1834)養父の11代目藩主・忠順の隠居にともない12代目藩主となった。

 

 天保14年(1843)から嘉永3年(1850)まで京都所司代に就任、お役御免後の嘉永4年(1851)異国船に対する警戒体制の一環として幕府に台場築造を届け出る。

 

 嘉永6年(1853)のペリー来航の翌年、川崎町の重田卯右衛門に命じて川崎台場を築造した。小浜藩はこの他に国指定史跡である松ヶ瀬台場・鋸崎台場など約30ヶ所に台場を築造している。

 

 安政5年(1858)2度目の京都所司代に就任、同年から将軍継嗣問題が起り、大老・井伊直弼らとともに南紀派(徳川慶福)を支持し、一橋派(一橋慶喜)を弾圧、安政の大獄に繋がっていく。

 

 安政7年(1860)直弼暗殺後も和宮降嫁などの公武合体策にも奔走し、文久2年(1862)に発生した寺田屋事件では関白・九条尚忠とともに薩摩藩尊皇過激派の標的とされていたが、島津久光により事前に鎮撫され事なきを得た。

 

 しかし同年、安政の大獄や一橋派の弾圧といったことが失政を問われて所司代を罷免され、娘婿の忠氏に家督を譲って隠居・謹慎に追い込まれた。

 

 明治元年(1868)鳥羽・伏見の戦いに参戦していた忠氏が山陰道鎮撫軍に降伏すると名代として上京して謝罪、新政府より北陸道鎮撫軍の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦している。

 

 同年、小浜藩士の一部が彰義隊に与していたことが発覚し、忠氏は謹慎となり赦されたものの、病を理由に忠義に家督を譲り、14代目として再び藩主となった。明治6年(1873)61歳で死没。

 

 

以下、現地案内板より

 

川崎台場跡

 

 幕末になると日本海沿岸にロシア船が出没し、小浜藩の沿岸警備が始まりました。
 ここ川崎御台場は安政元年(1854)小浜藩が川崎町の重田卯右衛門に命じてつくらせたものです。台場はこの他五ケ所つくられ大砲は全部で五十五門ありました。
 大砲の玉は百匁から十六貫目まであって、川崎台場には七門が据付けられていました。台場は重田卯右衛門や黒鍬八兵衛らの奉仕でつくられ、大砲の鋳造費は町方商人に課せられました。
 川崎台場はこのように日本海側の沿岸警備のためつくられましたが、明治に廃止され、跡地は現在この公園となっています。