摂津 池田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

①②本丸と模擬天守③模擬城門④空堀


訪問日:2001年10月 2009年1月

所在地:大阪府池田市

 建武元年(1334)以来の池田氏の城。応仁の乱での大内政弘や細川高国らに攻められて幾度か落城したが、そのたびに復帰を果たした。

 

 永禄11年(1568)の織田信長の上洛戦でも落城したが、城主池田勝正は抵抗したにも拘わらず6万石を賜り、信長の家臣となって城を拡張した。しかし、三好三人衆に味方した池田知正や荒木村重に追放されてしまう。


 やがて将軍義昭と信長が対立すると知正は義昭につき、摂津は信長についた村重に与えられ、やがて降伏した知正は村重の家臣となり荒木久左衛門と名乗ったといわれている。


 しかし、荒木村重が信長に謀反を起こし、知正も有岡城に籠城するが、池田城は古池田陣所として信長の有岡城攻めの本陣となっており、池田城は信長方についた可能性が高い。有岡城降伏の翌年池田城も廃城となる。
 

以下、現地案内板より

池田城跡の歴史と整備

 池田城は室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現池田・豊中・箕面市周辺)を支配していた国人・池田氏の居城でした。
 池田氏は、15世紀の中頃から勢力を拡大し、当時の権力者であった摂津守護細川氏の家臣として、有力な位置を占めていましたが、戦国時代末期の永禄11年(1568)織田信長の摂津入国により降伏し、信長の家臣に組込まれました。その後、池田氏の内紛に乗じて旧家臣の荒木村重が池田城を支配し、村重が伊丹城を居城としたため、池田城は廃城となりました。
 この跡地整備の基本資料を得る目的で、平成元年度から4カ年をかけ発掘調査を行い、確認された枯山水、井戸、虎口(城の出入口)などの遺構を復元しました。漆喰塀や櫓風の展望休憩舎、管理棟などの建物やデザインは史実には基づきませんが、城跡のイメージを演出させるものとしました。日本庭園は、深山の景、野の景、海の景の3つから形成され、自然の姿を水の流れで表現しています。歴史の保全と活用から「城跡の歴史を感じられる憩いの場」として整備を進め、平成11年度に完成しました。