贅沢とは、ある意味でムダなこと、浪費することではなかろうか。生活が苦しいのに高級ブランド品でめかし込んだり、高価なアクセサリーを欲しがる女性は、贅沢というよりバカではないのかと思う。「無駄をなくそう」という考えは大事だが、あらゆる無駄をなくしたなら人間は息苦しくて生きて行けないのではないか。例えば、家の中には実用品しかなく、娯楽用品とか花を生ける花瓶や壺とか、そうしたものは一切無駄だし必要ないとしてとり除いたら、心のなかは隙間風が吹き抜けるだろう。
「贅沢は敵」ではなく、少々の贅沢は心に潤いを与えてくれる。人間は「有用」なものだけでは生きてゆけないのだ。「欲しがりません。勝つまでは」のスローガンは戦時中のもので、当時は近隣で組織された「隣組」が互いを監視し合っていた。日本の政府もすべての芸術を国家の目的に利用しようと考えた。愛国心や忠義を最優先し、戦争における勇気を讃美したものだけを「有用」なものとし、「無用」なものを一切排除という徹底ぶりだった。息苦しい世の中になったが、戦時下故に皆が殉じた。

欧米では何かの記念日や誕生日に、男が女性に花を贈る習わしがある。自分はしたことはないが、そういうシチュエーションに憧れはある。しない理由は、そういう発想もなければ一ミリ程度も考えたこともないからで、「花より団子」というように、実用的な何かを考える。花は華やかではあるが、数日の命で何の役にも立たない。欧米男子はそういうことは考えないのか。団子より花なのだろうか。岡倉天心は日本の近代美術制度を築いた思想家・運動家として知られているが以下の言葉を残している。
「原始時代の人は、その恋人に花輪を捧げることによって、はじめて獣性を脱した」。これは天心の著書『茶の本』のなかの一節だが、人間が原始の獣性を脱して人間らしく成長するとはどういうことかの問いに答えたもので、ここでは恋人に「花輪」を捧げることがあげられている。なるほど、男の獣性を花によって緩和しようということなのかと。それが「無用」な花の効用なのだろう。食い物にもならない花そのものは、何ら腹の足しにもならず、時間と共に散ってしまう。それでも花なのか。
花束それ自体実用性のないものを恋人に捧げる。そのことによって生ずる愛の感情表現としての美意識、それを自覚したとき人間は獣性を脱する。天心はこう続けている。「彼(原始人)はこうして粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要なものの微妙な用途を認めたとき芸術の国に入った」。天心は東京美術学校(現・東京芸大)の設立に貢献し、後年には日本美術院を創設した。天心の言葉は花だけにあらず、芸術そのものの性格を示している。ふと前途した小沢昭一の言葉がよぎる。
「ぼくたちの仕事は虚業なんですよ」。俳優業に限らず、音楽家、書家、歌手らにも通じるものだが、芸術というのは実用性から比べて一種の「遊び」であって、もちろん頭も使うし感覚も鋭くなければならない知的遊戯といっていい。「遊び」という言葉のなかには「無用の用」という考え方が入っている。、つまり無用のようでありながら実は有用ということ。社会とか日常生活に直接役にはたたないが、心にゆとりを与えてくれる遊び心。繰り返す。「人間は有用なものだけでは生きてはゆけない」。

「芸術とは自然の模倣」といわれる。美しい自然の中から必然的に芸術が生まれたのだろう。「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く、山ひはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほどくたなびきたる」は、『枕草子』の冒頭である。四季おりおりの特徴ある景色や情緒を清少納言は自分の好みをかぶせて描いている。何でもないような描写だが、彼女の季節への敏感さを感じる一節だ。われわれとは違った時代と環境に生きた人だが、自然そのものは昔も今も変わるところなく、美しさは無限である。
スマホに代表されるように、現代人は機械の奴隷である。これなくば生きては行けないという代表的な機器なのだろう。機械に支配されたくない自分にとってスマホは無用の際たるものだが、来年1月にガラケーが使えなくなる。今後は持たずに生きるかどうするか思案中だが、電話とメールだけのスマホなら持ってもいい。スマホが贅沢などとは思わないが、ポケットに入らないデカさと、電話・メール以外の機能が無用の長物となっている。ガラケーもほとんど持ち歩かないので、不用といえば不用。

国語辞書によると贅沢とは「必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと」とある。そういう観点から見て自分の所有物はに贅沢なものが多い。いずれも無理をしないで購入したから贅沢という意識はなかったが、実用・不用という観点からみると贅沢の山となっている。クローゼット一ヵ所にはシャツが並び、他の三ヵ所すべて満杯だ。贅沢と思うものは他に将棋盤が9面、駒が15組ある。いずれも所有欲を満たすもので、使用頻度からすれば無用の長物だろう。
が、これを購入しなかったらその分浪費をしなくて済んだということはない。お金は通帳の数字に過ぎないからで、それ自体は何も生まない。お金も物も死ねばクズに変わりはない。贅沢というのは当人の意識にはないが、預金の数字なら贅沢といわないという考え方は自分には不合理である。物か金かというだけのことだが、将棋仲間を家に呼んだときに、贅沢だと批判する人がたまにいる。自分が若いころ、よい盤・駒を所有する方の自宅で指すのは楽しみだったが、批判する人の心情は分からない。

わざに褒める事はないが腐すこともなかろう。よい盤・駒での対局は気分も違うが、遠回し的な批判をする屈折した心情の持ち主もいる。ま、そういう人は二度と呼ぶことはない。喜ばれると思ったが宛が外れただけで自分は何ら悪いこともしていない。他人がかつての自分と同じ気持ちになることもなく、人の心はいろいろだ。ベンツに乗ろうが軽自動車に乗ろうが、それぞれの分際で選んでいるわけだが、軽自動車に乗る人がベンツの所有者を贅沢と批判するのも自由。それで気持ちが収まるのなら。
ただし、あまりいい光景ではない。話を振られても同調はしない。欲しいものを自分の金で買う自由さは何らやましいものではないが、批判の裏には屈折した心情が見える。贅沢を贅沢とも思わないのは負担にならないからで、普通の人の100万円がその人にとっては1万円なのだろう。それは仕方のないことだが、そういう人が「贅沢は止めよう」と思うならそれは価値あることだが、他人から鬩ぎを受けることではない。質素・倹約は美徳であり、自分もそう思う。だからそういう意識で生活している。