見方というのは感じ方ともいう。それこそ他人はいろいろだから、自分と異なる意見をブロックしない。耳をふさぐこともない。お気に召すままに意見を述べて下さいとなる。論破などと気どった言い方をするが、議論というのは必要性の上でなされるものだから、勝ち負けを争うものではないのに、相手を押し黙らせたからと、得意になる人間の幼稚さである。議論をけしかけてくる奴はいるが、それが屁理屈と分かった時点で反論しない。なぜなら、筋の通らぬ屁理屈に反論するなど時間の無駄だ。

「偽(いつわり)」を読み取る力も必要で、嘘をいうのと誤った発言とは違うもので、前者は確信、後者は無知。前者に諭す必要性はないが、後者に諭すかどうかは相手と自分の親密度による。若い頃はムキにもなったが、最近はもっぱら聞き流すことが多い。嘘をたずさえて相手を納得させて、それが得と思うなら嘘もつこうし、営業マンはそれでメシを食っている。ただし、真実をいって納得させられる場合もある。真実で納得させられるのに、嘘の力を借りようとする者は相手を見誤っているヘタレ。

 



このように人間関係で大事なのは、相手がどういう人間であるかを読み取る能力だが、それこそ多くの人間と相対していれば分かってくることもある。人の人生とは、限りなく善と悪のはざまで右往したり左往したりで、その経験は誰にもあろう。人間関係というのは、理解の上に安定しがちと思うが、実は誤解の上で安定するもののようだ。「あの人は"いい人"と思うより"いやな人"と多くの欠点をあげつらった方が楽…」という人がいた。不思議なことをいうなと思ったが、自分に自信がないのだ。

他人の幸福を喜べぬ人、他人の不幸を蜜の味と感じる人、こういう屈折した心をきたした原因は、家庭環境や育てられ方にあると推察するしかない。他人の「幸」をわがことのように感じる人は、一言でいうなら人間愛に満つる人ではないか。他人を褒めることで何かを失うものなどないはずなのに、それができない人は自尊心が傷つくのだろう。自身のなかの安定した自尊心ではなく、他人と自分との関係からの相対的な自尊心といえる。傷つきやすい自尊心といえるが、その程度の自尊心ということ。

本当の自信がないのだろう。本当の自信をつけるためにはどうすべきかを幾度もここに書いた。「自分で選択し自分で実践する」がもっとも近道である。たとえ失敗しても自身で選択・決断・実行したなら得るものも多い。それら一切が自信の肥やしになる。つまり自信とは一朝一夕に身につくものではないともいえる。少しづつ地道に時間をかけて身につけるというなが~い道のりである。「人の見方はいろいろ」書いたが、Aには良くてもBには向かないやり方もある。自分に向き不向きは分からない。

 

 


何が自分に合っているかも試してみなければ分からない。「あいつは悪い奴」「彼女はすぐに感情的になる」「あいつは頭がいい」「彼女は嫉妬深い」などと定形を作る。これらが自分に当てはまるのかどうなのか自分にも分かりにくい本当の姿をどうして他人が分かり得よう。自分も他人を正確に把握できずイメージで判断する。人間は一筋縄では行かない多面性がある。当たるも八卦当たらぬも八卦の占い師が「あなたは〇〇だけどホントは××でしょう」といわれると「そうかも知れない」となる。

 



占い師も分かっていうのではない。適当にいってれば勝手に納得する。「あなたは〇〇だ!」といわれても「絶対に違う」とは思えないほどに人は多面的だ。自分はこれでいいのかどうなのか?幸せなのか否か?茫漠として考えつめればつめるほど、何が幸福で何が不幸かもわからなくなる。第16代ローマ皇帝アウレリウスは賢帝として名高いが「去る者は追わず、来る者は拒まない」といった。自立型人間は他人に依存しないが、人や物に執着しないことで「冷たい人」という印象を与えかねない。

自分は時々「冷たい人ね」といわれたが、そういう意味であろう。人というものは我々の断りなしに現れては消えるものである。ゆえにか凡庸に見える身の処し方が一つの知恵にもなり得る。別の言い方として「可もなし不可もなし」というのは「可もアリ不可もアリ」と同じことでは?自分たちと同じ世代前後の人たちがポツりポツりと死ぬんでゆく。そうしたことから意識が死に向かっていくようになる。若い頃は考えもしなかったことだが、自分がこの世から消えてどうなるものでもなかろう。

 



世にしがらむことの無意味さを自覚しつつ、人はみな死んだという意識も消えたという実感もない生涯を終える。それは生まれたときも同じことだ。周囲の人たちが「生まれた」というように、周囲の人たちが「死んだ」というだけのこと。不自由の中にある自由を満喫しながら、できることなら誰にも邪魔をされることなく生きたいものだ。好きな時間に眠り、好きなことをし、好きなものを食い、黙っていたいときには喋りかけられることもなくて済む。不自由の中にあるからこそ自由は尊いものだ。

イスラエルとパレスチナの争いを見て、旧約聖書の『出エジプト記』が脳裏を駆け巡る。同書にはモーゼがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した経緯が書かれている。海が割れてイスラエルの民が底を渡り、エジプト人の追手が来たときは海が元に戻って多くのエジプト人が海に沈んだ。その後モーゼは民とともに40年にわたって荒野をさまよい「約束の地」にたどり着いたが、モーゼは神の指示を忠実に守らなかった過去があり、約束の土地を目前にしてそこへは入れないままに120歳で世を去る。

 

 

モーゼは犯した二つの罪のために約束の地カナンに入ることを許されなかった。久々に『十戒』を観たくなった。無神論者の自分であるが、誰によって書かれたかも分からぬ旧約聖書の記述は、物語り的で面白い。たとえ地球が逆に回ろうともこの世は神が造ったと信じることはない。『神は死んだのか』という映画はアメリカの大学で実際に起きたさまざまな訴訟事件を基に、神を信じる学生が神の存在を証明すべく、無神論者の教授と対決するさまを描いたドラマである。彼はビッグバンを否定する。

「最初の爆発が起こった3分後、物質の98%が形成された」。これはノーベル物理学者ワインバーグによるビッグバンの説明だが、神による創造がなくて無が一瞬にして形を成すなど現実的には起こり得ない。2500年間科学者の定説だったアリストテレスの宇宙論では、宇宙には始まりも終わりもないとされたが、1920年代に有神論者のルメートルが、無から驚くべき強烈な光が放たれ、全宇宙が一瞬で形成された。それは創世記一章3節に記された神の掛け声「光あれ!」に対する宇宙の反応といい始めた。

「聖書には宇宙の起源が正確に記されている」ということは、2500年もの間、聖書が正しく科学は間違っていたことになる。「が、ドーキンスは神が宇宙を創造したなら、神を創造したのは?といってます。」「神が創造された者という点はキリスト教で意味をなさないが、ドーキンスの質問には、宇宙があなたを創ったなら、宇宙を創ったのは誰?といいたい。"始まり"を理性的に考えるなら創造主の存在は明らかで、ここで神の存在を否定しては物事の成り行きについての説明に立ち止まる」―終―