「生きる」だけでなく「幸せに生きたい」ものだ。そのためにはどうすればいいのだろう。あれこれ思考してみたが、残念ながら自分のことしか浮かばない。他人のことも考えてみるが、どれもこれもすべては自分がこうした方がいいという考えでしかない。結局、他人のことは自分のアイデアであって、他人向けと勝手にいってるに過ぎない。本でも書いて売るなら自分のアイデアを買って読む人もいようが、書き手の主観を共感するならまだしも実践となると難しい。自分と他人は性格が違っている。

他人に「ああしろ」「こうしろ」というのは好きではない。が、あまりに浅い考えや明らかに間違っているであろう考えに対しては意見をいう。いうけれども、自分の考えに固執した人は、自分の考えにないことをそう簡単に理解できない。それもそうだろう、思考経路が自分向きにできているからだ。説得には強引さが必要だが、そこで求められるべくは「納得」させる話術で、これがなかなか難しい。むつかしいといいながら取り組んでいるので、いつしか花を咲かすこともできよう。と、思うのだが。

 

    

自分の前に現れる人はそれこそ千差万別でいろいろだ。余程の実体験に裏打ちされた素養を持っていなければならない。悩む人に声をかけるのは簡単だ。口と言葉さえあれば誰でもできる。が、自分の言葉が相手に適切かどうかを知るのは相手であって、自分が己の言葉に酔っていてはお恥ずかしい限り。人はいろいろ、悩みもいろいろ、個人の悩みならまだしも、夫婦とならば相手は二人だから、どちらの性格を知る必要がある。正しい答えを授けるのがいかに簡単でないかということがわかろう。

「人の悩みなんてこんな程度のものだろう」と、達観できるがそれは無責任である。他人は他人に結局は自分の主観をいってるに他ならない。そういう反省は常にある。数日前に「悩み相談の無意味さ」という記事を書いたが、無意味であるけれどもあながち無意味ともいえない。その理由は、他人の意見を聞くことができるからだ。他人の考えをもとに新たな発想もわくだろうし、行動にも影響するかも知れない。「ハバアのくせにアニヲタかよ。歳考えろよキモいんだよ」と、いわれた女性がいた。

「どうすべきでしょうか?」といっても済んだことだからその場の対応の答えはない。「アラフォーでアニオタは変ですか?」なら答えはある。がその答えが慰め程度なものか、得心が行くものかは本人が知ること。どちらも自分が被験した場合、何ら悩みにならない。それだけこの女性と自分の性格は違っている。性格の違う同士が、一つの問題に一つの答えを得るものかどうか模索は必要だ。仮に自分が同じアラフォーの女性であったら、そうした雑言にどう対処したか?などと考えることは可能。

それなら「私があなただったら」という前提で対処は可能だが、本当に可能かどうなのか?年齢も性別も違う人間が、いきなり相手と同じ境遇になれるわけがない。それでなったつもりで何かをいってもそれこそ無意味である。だから、そんなことはいわずに自分の対処法をいうしかない。「アニヲタババァにいちゃもんつけていきがってるそこのチンカス男。そんな暇があったら自分のことを心配しろ」というかも知れない。もう一つは相手の発言を否定しないで対処することもある。ときどきの気分だ。

 

 

たとえば「ハバアのくせにアニヲタやめられないんです。キモいというけど会わないからいいんじゃない?」と茶化す。反抗か同意が適切かは相手の性格によるだろう。分からないままに書くしかない。基本は腹を立てないことで、こんなことをいう人間はよほど屈折した心情の持ち主といたわってやればいい。それが大人というもの。5歳の子どもに「バカ」といわれて腹を立てないとおなじこと。面白いのは「おばちゃんのバカ」といわれて「おばちゃんじゃない、おねーちゃんよ」という女性がいる。

実際に場面を公園で目撃して笑ったものだ。この女性は「バカ」より「おばちゃん」の方が気に入らなかったのだろう。ryuchellが心ないネットの書き込みに苦悩したようだ。ついには命まで断ってしまった。彼はどうすべきだったか、何時間考えても意味はない。「SNSのない国へ行きたい」と少なからず思ったであろうが、それも非現実的だ。彼ばかりではない。これまでどれだけの少年・少女がいじめの歯牙にかかったか。そういうときに思ったのは、「チクる」という言葉の陰湿さではないのか?

 



「チクる」がなぜいけない。「チクる」を悪とする同調圧力は、正しい行為を失わせるばかりか、陰で悪いことをする奴らをのさばらせる。いじめの解決には部外者による制止と報告が問題をあからさまにするが、「チクる」が悪なら傍観を是としないかねない。いじめ行為者は陰の首謀者ゆえに目撃したら告発するのが正しいと考える。「あの野郎、チクりやがって」は悪の身勝手にすぎない。「チクる」という言葉の響きもよくない。「チクる」という言葉をこの世から撲滅し「告発」にすべきである。

ryuchellは公人だ。批判に反応していては火に油を注ぎかねない。公人が何かをいえば必ず敵を作るが、いわないならストレスもたまろう。かつてはこんな時代はなかったのに、今はあからさまな個人攻撃が日常のようになされている。「石川や浜の真砂子は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」と、これは石川五右衛門の辞世とされるが「川浜の砂がたとえ尽きることがあろうとも、この世の中に盗人がいなくなることはない」という意味。野坂昭如は「この世にいじめと差別はなくならない」といった。

 



なぜなら「人は差別されるのは嫌だが、人を差別するのは好きだから」と理由を添えている。いじめも一緒だ。同じように、人がそれを好む以上、悪口・陰口もなくならない。スケベ男がセクハラを止めないならと法の整備がなされた。悪辣上司のパワハラも弱者保護の観点から法制化された。「他人を不幸に陥れるのは蜜の味」という人間である。それほど自身に不満を持ち、悪口・雑言は不満のはけ口だからだろう。人からそれをうばうことはできない。出る杭は邪魔なもの、だから打たれるという。

これに対して「出過ぎた杭は打たれない(打ちにくい)」と、半ばジョークであるがこれはいいと思ったことがある。何かと打たれ気味だった自分は、ならば出過ぎでやろうと方向転換した。それが効果的だったか「彼に何かをいっても勝ち目はない」となっていた。それは一つの成功だった。ヤフーブログでつまらぬコメントをするものもいたが、尻尾巻いて退散させるのを楽しんだ。友人は「枠に嵌められないやつだな」というが、「確かに。枠が壊れるだろう」などと返したり。自分は枠が好きでない。