確かに我々は他人の知識で物知りにはなれる。が、本当の賢さというのは、我々自身の知恵に拠るしかない。「知る」ことと「行う」ことは違う。正しいと知っていても行えないのが人間、悪いと分かっていてもなかなかやめられないのも人間だ。知識も大事だがそれ以上に大事なのが知恵。知恵とは我々が自らの体験で得た知識であり、汗と涙でにじんだ知恵ということだ。「努力しているかぎり人は迷うが、絶えず努力するものを私たちは救うことができる」とファウストの魂を天使たちは運んでいく。

「智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。というのは偽りなき人間の心情か。「智に働けども角立てず、情に棹を差せども流されぬ。意地を通せば清々しい」と、このような生き方を模索することまた楽しからず。アドラーは人生の意味を探れという。面白くないことはなぜ面白くないのか。自分や嫌なことはなぜ嫌なのか。そうすることで自分を苦しめているものの正体を見つけ対処法を見つける。先ずは根本を見つけることが大事であると。

 



人生で起こり得る多くのことはパズルのように絡み合っている。難しく作られた迷路であっても、あちこち迷いながら進めば必ず出口に到達する。「迷路」なのだから迷って当たり前、迷わぬはずがないと思えばいいこと。「学習とは自らを変えること」といった。変わらぬ限り学習したことにならず、ましてや学習しない人間が変わるはずがない。変わるとは、ホップしステップしてジャンプすること。社内面接の学生に弁当を用意、速く食べたものを採用基準にするという会社社長の話を学生にした。

ある女子学生はこう批判した。「弁当食べるのが早いだけで仕事が出来るとは思わないですね。ゆっくり栄養が行き届くように食事をするのがいいに決まってます」この言い分を聞きながら物事を肯定する以前に批判する性向からして、「学ばない」人間の典型と感じた。彼女は「なぜ食事の速い人間がよいとされるのか?」という疑問すら生じさせていない。これは仕事には集中力が不可欠であり、食事をするときは食べることに一心に集中できる人間か否かを判断しようとの隠された命題がある。

にもかかわらず、「栄養が行き届く」などの持論は、木を見ても森を見ずである。このように物事の本質を見分けられず、畑違いの論理を展開する人間に仕事のできる者はいない。如何に瞬時に本質を掴み取り、それに合った適切な論理を組み立てるのが秀逸な頭脳所有者であろう。マークシート方式は合理的だが、論理的思考は身につかない。「〇」か「☓」かの結果が重要ではなく、そこに至る思考のプロセスが大事なのだ。これでは日本の優秀な大学のレベルが世界的に下位というのも頷けられる。

現代社会にAI(人工知能)はなくてはならぬものになっているが、AIは知能であっても知性といえるのだろうか?知能とは、機械的な認識能力だったり、計算だったりと、より下位の知的能力をいうが、知性とは、明白な答えがない問いに対し、その答えを探求する能力のこと。知性をもったコンピュータは存在していないが、果たして人間の知性を超えるようなコンピュータは出現するのだろうか。人間の知性領域の重要な機能に「想像力」というのがある。想像力はイマジネーションともいう。

 



人工知能研究者はAIにはコミュニケーション能力は生まれないという。なぜならコミュニケーション能力は自らが動いて身につけるもので、機械はデンと据えられてはいるが、自ら動き回ることはない。さらにAIには認識番号はあるが「自己」という認識はない。適当に情報を組み合わせて何かを創ることはできるが、創造力に必要な他者感覚というものがない。他者感覚とは、相手が自分と同じような存在であるという感覚だが、そもそもAIには「自分」というものがなく、他者感覚をもち得ない。

自己を持たねば他者感覚もなかろう。そんなAIが欲望を持つことはない。他者に好意を持つこともなければ恋をすることもない。どんなに知能が優れていようが機械は機械だが、有効的な活用はできる。10年くらい前だったろうか、AI将棋ソフトが生まれたころの棋力は話にならなかった。それがどんどん進化してゆき、名人を脅かすほどになった。これでは棋士の存在価値がなくなるであろうと、当時の連盟会長は、棋士とAIの対局を禁止した。そのことで棋士の存在価値を守ろうとしたのだ。

 



AIを批判する棋士もいた。理屈をいわずに取り入れる棋士もいた。人間の棋力を凌駕するほどになったAIを、幼少時期から活用したことでとんでもない棋士が将棋界に誕生した。それが藤井聡太六冠で、本日と明日の対局に勝利すれば七冠覇者となる。かつて羽生善治が七冠制覇したときは大騒ぎしたが、それほどに大変なことだったようだ。ところが藤井聡太は何事もなかったかのように六つのタイトルをかっさらい、本日と明日の名人戦に勝利するであろうことも、棋士仲間において異論はない。

聡太は将棋が強いというより、他の棋士に比べて将棋のレベルが違っている。彼は5歳のころに将来の夢を「名人をこす」といった。名人をこした先に何があるか、名人をこすとは何か?無邪気な子どもによる他愛ない発言と思われたが、今になってその意味を誰もが理解する。これまで幾人かの将棋名人が存在したが、藤井聡太が名人となった時点で誰もが認める「名人をこす」である。それはもう理屈ではなく、言葉では説明できない「名人をこす」という存在の登場を万雷の拍手で迎えることになる。

 



スピノザという哲学者はこんな言葉をおいている。「真理の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない」。これはデカルトに真向異論を述べている。なぜならデカルトは「どんなに真であると思える観念であろうとそれを疑わざるを得ない」と述べている。比べてスピノザは何とおおらかであろう。「真の観念を獲得すれば、それが真であると分かる」といっているからだ。いささか気楽な感じを受けるが、意味の本質はこうではないか。

「真の観念を有する者は同時に自分が真の観念を有するということは、真の観念を有する者だけが真の観念の何たるかを知っているということである。藤井聡太の「名人をこす」というのは、それを獲得した彼のみが知ることであり、獲得していない人にとっては「名人をこす」という観念がどのようなものであるのかは分からない。他人は他人を理解しているようで、その実は分かっていないということは結構ある。分かっているのは全体のなかの一部であって、本人にとっては全体の全部を理解する。