妻にアタマの上がらぬままに人生を終焉する夫がいる。どうしてそうなったのか?嫌ではなかったのか?変えることはできなかったのか?などの疑問がわくが、夫がそれでいいなら他人の思いは及ばない。それをよくないと思いつつも結果的にそうなったなら、それでよかったということになろう。嫌ならよくないことを避けるようにリードしていくだろうから、できなかったことも考えられる。「相手のいいようにさせてたまるか!」の気持ちがなかった結果である。自分の母は傲慢で尊大な人間だった。

それに抗わない限り、自分の好きなことは何ひとつさせてもらえない。「冗談じゃない。自分は自分の好きなことをやる。親といえども邪魔はさせない」という風になったのはさまざまな要因がある。その中で佐藤愛子の「親のいうことなんか聞いてちゃダメ」というのは、子どもにとって信じられない言葉だった。学校でも地域社会でも「親のいうことは聞きましょう」と、これはもう標語のようにいわれていた。少なくとも自我が芽生える前の子どもにとって、何の違和感もなく受け入れる言葉だった。

 



自我とは何か?なぜ自我が芽生えるのか?自我とは「自分は自分であって誰のものでもない」ということだから、それが芽生えない子どもは半分死んだも同然だ。東大四兄弟の母親が「うちの子に反抗期はなかった」と自慢げにいっていた。どういう環境かを即座に理解した。籠の鳥のよい部分もあるが、それが嫌な鳥は籠から飛び出し行方不明になる。電信柱に時々張り紙を見る。「かわいいインコのピーちゃんがいなくなりました。心当たりの方は連絡ください」。インコは逃げ出したかったのだろう。

人間に限らずすべての動物は主体的な意思を持っている。したがって、人間のなかには自発的に動くものがある。生まれたときに「オギャー」と泣くのも教わったわけではない。思春期に性に目覚めるのも本能習性の仕業である。学習によって得たものと本能から自発的に得たものは別で、人間は言葉や字を覚えたり複雑な作業をしたりすることから、「本能の壊れた動物」といわれている。確かに本能だけで複雑な社会を生きることは難しいが、本能習性を失った人間には悲劇的な面もあるという。

子どもが親に背くのは、別の思考をもつ人間として当然で、問題なのは自らに背くこと。しかし、これも人間が言葉の動物であるためにおこること。例えば「言行不一致」というのは、行動と言葉が違うことをいう。言葉の動物である人間に言行不一致でない者はいない。なぜなら、言葉をもたない犬や猫は、行動=意思とみなされる。なかには自分の意思とは別に買主に忖度して行動する犬もいるが、言葉がない以上言行不一致ではない。人間の代表的な言行不一致は、「イヤよイヤよもイイのうち」。

傲慢で支配的な母との日々の格闘から強い性格が育まれた。いまとなっては結果的に良かった思っている。「試練が人を強くする」のは間違いないことだ。「辛い」「苦しい」「死にたい」を口にする人がいる。それらは甘えの言葉であって、あえて人前で口にして同情を買おうとする。「辛い」を辛いままでいるというのか?「苦しい」を苦しいままでいたいのか?何もしなければ何も変わらない。多少問題があろうとも何かをすべきで、それをせぬままに口で呪文を唱えたところで何も変わらない。

 



「『死ぬ、死ぬ』という者に死んだ者はいない」といわれるように、「辛い、死にたい」などと訴えることがいけないということではない。自分の意思一切を親に無視され、踏みにじられてきた子どもいる。自分がしたいことではなく、親が期待することをして生きてきた「良い子」というのは世の中にたくさんいる。いい例が4人の子全員を東大医学部に入学させた母親だ。これを批判する親がどれくらいの割合いるかわからないが、子どもを塾づけにして尻を叩く親にすれば羨ましい限りである。

「死にたい」が実行されることになりかねない。「坐して死を待つ」というように意志なくばそれも選択か。自殺者に対し「死ぬ気持ちで何かをやれないものか?」と誰もが思うこと。しかし、死を超えて何かをやろうというバイタリティがないから死を選ぶのだろう。戦場で戦うのは死にたくないからで、自分が死ぬくらいなら相手を殺すという状況だ。人殺しは倫理的に許されなくとも戦争という論理のなかでは許される。ロシアで逃亡者は処刑されるが、すべての兵が銃をおいたらどうなるのか?

国家の一員というのは概ね誰もが同じ方向を向くものだ。戦時中の日本が婦女子に竹やりをもたせて訓練させた。そんなものは銃火器の前にすれば屁にもならないが、「鬼畜米英」の掛け声よろしく戦いの意欲の表れであって、「そんなもん無意味だから自分は持たない」などと誰一人として発言できない。そんなことをいおうものなら「非国民」と断罪され、憲兵に連行されるだろう。持つ人への侮辱になるからだ。真っ当な論も正しいことも不要であって、すべては空気の支配によって決められる。

坂口安吾は「悪妻論」のなかでこう述べる。「いわゆる良妻の如く、知性なく、眠れる魂の、良犬の如くに訓練されたドレイのような従順な女が、真実の意味において良妻である筈がない。(中略) 夫婦は、苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め、いたわるよりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。しからば、悪妻は良妻なりやといえば、必ずしもそうではない。知性なく悪妻は、これはほんとの悪妻だ。」という坂口安吾独特の文章表現だが、正直何をいってるのかサッパリ分からない。

 

         

従順な良妻が良妻ではないなら、従順ならぬ妻こそが良妻であるという。野球監督だった故野村克也氏の妻である故野村沙知代氏に『悪妻こそ、良妻』という著書がある。読んではないが、世の悪妻たちが好んで読んだかもしれない。良妻と思っていたら実は悪妻だったというのもあろう、悪妻と思ったら実は良妻だったというのもあろう。何が悪妻で何を良妻というのかは、妻と夫の個性の相対的なものだから、人によって違って当然だが、自分がいいたいのは妻に支配されていいのかどうかである。

これすら支配されてよいという夫、支配されるなど冗談じゃないという夫がいるわけで、妻に支配されるなどは後者の自分として考えられない。が、そういう夫をたくさん知っている。まあ、夫婦の形は他人がとやかくいうものではない。「かかあ殿下の方が家庭円満」なども耳にするが、自分にはまったく理解できない代わりに批判もしない。夫婦に一般的な型はないのだ。「平安な家庭はニセモノ、安物に決まっている。だから良妻はニセモノ、安物にすぎない」と安吾のロジックは理解不能である。

『悪妻論』は安吾の友人・平野謙が、両手を包帯でぐるぐる巻きで現れたところから始まる。聞けば平野は妻に「肉がえぐられる深傷」を負わされてしまったという。それでも平野は妻を責めないばかりか満足であるという。安吾はそれから「悪妻とは何ぞ」を展開していくが平野は立派だ。よって彼の妻は悪妻にあらず論を展開するが、いかに安吾ファンの自分であれ、この屁理屈は承服できない。考えてもみよ、肉がえぐられるほどの深傷を負わされた妻を悪妻でないという男はアタマがいかれている。