男のやさしさとは、女性のワガママを聞き入れることではないが、それをやさしさと思う女性がいる。それなら男もやさしさを演じたらいい。演技を続けるのはしんどいだろうから、女のワガママについていけなくなった時点で「いい加減にしろよ」となるかも知れない。そのとき女性は「この人ホントはやさしくなかった」となる。誇示されたやさしさというのは、実は冷たさの隠匿だろうが、表面的にやさしく見えるのでやさしい男と見誤るのかも知れぬが、やさしさなんてのは簡単に演じれるもの。

ならば、本当のやさしさを見抜くためにはどうすればいいのか?やはり、ある程度の期間付き合ってみるしかなかろう。やさしさに限らず、人の本心はそう簡単に現れるものではないから、早い段階で看破するのはむつかしい。相手がどういう人間であるかを感性で判断できる部分もないではないが、その人の経験や知識がものをいう。したがって、経験が少ないとか、アタマの悪い人間にとっては、人の奥深う心を見抜くことは至難である。だからか、表面だけで人を分かった気になるのは仕方がない。

 



ヒトには深層心理というものがある。これは心理学の勉強から得る以前に体験から身につけるものだろう。実体験の少ない心理学者というのは、ただのアタマでっかちが多いっもので、経験に勝る理解はないだろう。だから、経験の浅い若者は物事や人間の奥深いところを理解できないし、分かる範囲で人と付き合うしかない。子どもが非行に走った母親がこんな風にいう。「わたしはできることをやったつもりです」と、この言葉の裏には「不良になったのは周囲や友人のせいでしょう」といわんばかり。

「できることをやった」という母親の「できること」とは、道徳や常識や分別などだろうが、その母親が不良仲間と付き合って得たものはなにもない。おりこうさんが、おりこうさんを作ろうとしたが、おりこうさんにならなかったのは、子どもがおりこうさん以外の人と付き合ったからと思い込んでいる。おりこうさん以外の人間と付き合っても不良にならない子どもは大勢いる。親の子育てに過不足があったかどうかは親にも分からないが、本当にその子にあった育て方をしたかといえば疑問は残ろう。

相手を見ずにどんな献身したところで本人のためにはならない。時には、有害ですらある。ある母親は「怒らないやさしい母親」であるが、やさしさと真剣であることは別だ。真剣であれば時には注意もし、強い口調で怒ることも必要となる。こういう母親は「やさしい」ではなく「甘い」ということになろう。やさしさは時に厳しさにもなるが甘いはそれだけのもの。子どもが何かに失敗したとき「残念だったね。落ち込まないでいいのよ」というのがやさしい母親かも知れない。やさしさは癒しとなる。

やさしい父親はいう。「いいんじゃないか?結果は何かをやった証だからそれ自体評価はできる。何もしないで失敗もしなかったと喜ぶやつに何の評もできないよ」結果は出ない」と、結果よりも挑戦することの大事さを諭せば、失敗を怖がらない子になる。子どもが失敗を恐れるのは自分のことの他に親への気持ちもある。だから、親が失敗に何らかの評価を与えてやることだ。あるハイミス同士の以下の会話が笑える。「わたし、自分の過去を振り返るとサ、すごく悔いがあるの」「何があったの?」

 



「何もなかったのよ!」「……。」何もしないで何かが起こることはない。失敗もないかわりに何も起こらなかったことは、むしろ悔やむべきではないか。自分は何もせずに失敗した人をあげつらう奴にこういうのが多い。幼稚園のかけっこでビリになった子に「あなたが一番かわいかったよ」といえるのが母。他方、「お父さんもかけっこはいつもビリだった。そういうところは似るんだな~」と、論理で納得させる父。それぞれにそれぞれの役割がある。どちらにせよ子どもはいい影響を受けて育つ。

「〇〇くんは速いね。いつも一番。なんであのこのようになれないんだろ?」と、子どもを傷つける母もいる。かけっこだけじゃない、学習についてもだ。その時こどもは父から教わったように「お母さんの子だからバカなんだよ。仕方ないな」といってやればいい。大林宜彦の映画だったか、子どもに勉強は一番だったといった母が娘と連れ添って、級友宅を訪ねる。そこで級友の母にいわれた。「あら~懐かしいわね。0点おテルじゃないの。それでいつも立たされてたよね。」。娘は母にかみついた。

「そうなの?お母さん0点おテルなんだ~」と笑うしかない。時に親は、自分が求めているものを子どもが満たしてくれない、あるいは満たせてもらいたいばかりに、このようなウソをいう。子どもが知らないのをいいことに…。映画『バックトゥ・ザ・フューチャー』にも同じようなシーンがあるが、子どもが過去に行って、親と同級生をやるというような、タイムスリップ映画はオモシロイ。母親のやさしさとは、子どもとの関係のなかで子どもの心を癒す母を、子どもは空気のように感じて生きる。

やさしさの環境とは気を遣う必要のない環境。そういう母なら子どもをして「お母さんがいるだけでなにもいらない」となる。自分と母は毎日が戦場だった。「お母さんがいなくなってくれたらどれだけ幸せだろう」と思っていた。したがって、母親と戦うことは、母親の存在をブチのめすことだった。やらなければやられる。やられたくないからやる。一度足りとも休戦・停戦もなく相手が死ぬまで続いた。ロシアとウクライナを見て思うのは、戦争はどちらかが勝ち、あるいは負けない限り終わらない。

 



大は小には意地でも負けられない。小は大に「食われてなるものか!」と象に向かっていく蟻のごときだ。朝鮮戦争が停戦になったのは、あまりの人的被害の多さであった。自国の民がどんどん死んで減っていくのは、いかにバカげたことをやっているかを気づかせることだが、それでもなお大国のプライドというのか、ロシアはどれだけの国民を失わなければ止めないのだろう。太平洋戦争の時の日本もそうで、息子を戦場で死なせても「お国のため」の勝利を願っていた。ロシアの母も同じだろう。

国家の最高指導者の愚行を国民は止めることはできない。「悪法も法なり」という。いかにバカげた法であっても、法は法である以上守らねばならない。が、「悪親も親なり」に従う必要はない。自分は従わなかった。もし、従っていたなら、気の抜けた炭酸水のような人間になっていただろう。仕事もできないから会社には不要となる。何にでも従順だから社会のダニどものカモになって、金銭を巻き上げられる。こういうダメ男を都合のいい夫と企む女がいるのなら、男にとっても唯一の価値である。