人はどうあがいても人のなかで生きていくしかない。それを人間関係というが、夫婦関係も友人関係も親子関係も人間関係である。恋人関係も愛人関係も同様に人間関係である。が…、人間にとってもっとも苦悩の代償を払うのも人間関係であるという。人間関係は対人関係ともいうが、何が人間関係をそこねてしまうのか。オスカー・ワイルドは「人はそれぞれ、自分の愛するものを殺す」といった。これはどういう意味かを考えてみる。我々は、すべてのものに愛情深い気持ちをもって接してはいない。

すべての人に尊敬の念をもって接してはいない。おそらく、そうした人の接し方を十分に理解していないのだろう。我々は、自分たちの行動が、自分自身や周囲にそういう影響を及ぼすのかをさほど認識しないで生きている。さまざまな書籍や雑誌は、人間関係をいかに円滑にするかというテーマをしばしば掲げており、それを多くの人が目にする。だからといって、実践の難しさは活字の比ではない。人にはそれぞれの人格があり、そうした人格を創造する過程においてさまざまな影響を受けている。

 

 

実はそうしたさまざまな行動の裏に隠されている何かを人は認識していないケースがしばしばある。あるいは行動の本当の意図をあえて隠す場合もある。加藤諦三氏はその著書『若者の哲学』の中で「関係ということ」についてこういう書き出しをしている。「われわれ現代人にとって『関係』と真に呼びうるような関係が、どれだけあるだろうか」。加藤氏一流の問題提起から論を展開するが、なるほど氏のいうように、われわれは正しい人間関係を切望することなく、都合のよい立ち振る舞いをする。

これを人間の知恵ともいえるが、知恵とは狡さともいえる。もっとも誠実で表裏のない人間関係を人は求めていない。たとえこちらが求めたとしても、相手がそうでなければ誠実な関係は生まれない。結局、ほどほどのところで人と人は関係を作り、また保っているのではないか。以下はパスカルの言葉。「他人の観念の中で一つの架空な生活を生きようと欲し、そのために目立つことをしようとする。われわれは絶えず自己の架空な存在を飾り、それを保とうとつとめ、真の存在をなおざりにする」。

あらゆる動物のなか、大脳前頭葉を極度に肥大させた人間は、知恵をつけたけれども純粋な本能領域を退化させている。「おそらく、人間は真の存在に気づいていく時、他人のなかにある自分の架空の存在に興味をなくすにちがいない」(加藤氏)。情死についての記事もいくつか書いた。心中ともいうが、これほど分かり易い関係はなかろう。自分が確実に関わり合う相手は、共に死のうとする相手ただ一人。いかに自分たちに影響を与えた相手であろうと、自分たちの世界から完全に消えてしまっている。

二人は完全なまでに他の人々の眼から解放される。よくいわれるのは、心中は相手を殺した後に自分に手をかけるがゆえに他殺でありながら自殺でもある。心中はロマンの世界でありながら相手を殺害するというところが気がかりだから、ならば二人が同時に一、二の三で胸を突いたらどうか。などと考えてみたが、心臓は肋骨で覆われており、肋骨が砕けるほどの強い力でなければ心臓に到達しない。非力な女性の力で相手の胸深くさせるかどうか。急所をはずすと即死しないが、出血多量で死んでゆく。

 



その分苦しみで悶絶する。そりゃ痛いよ、包丁で指先を少し切っても痛い。ならば互いの頸動脈を切ればいいが、相手のクビを切るというのも勇気がいろう。情死といえどなかなか大変のようだ。心中はロマンというけれど、二人の死体は美しくもなんでもないのだ。ちと話がそれたが、われわれの間には、人と人との尊敬ということ以外に、真の人間関係などあり得ない。われわれが行っている人間関係というのは打算と虚飾に満ちている。純粋に誠実にためらいなく人と触れ合うことは至難であろう。

人間の内部に矛盾が存在する以上、人が誠実に生きるのは難しい。どのように正直に生きようと、内部に潜伏している矛盾は必ず時を見てあらわれる。それを短い期間おさえることはできたとしても、動物たちのように拗ねたりせず、文句も言わず、人を裏切ることもない。人がペットを飼う理由は、彼らのなかにある純粋さに人は癒されるのだろう。人は別の意味において動物たちより哀しい存在なのかも知れない。人はなぜ不倫に走るのか。夫婦において男女の平衡がとれると新鮮な瑞々さは失われる。

男女間が安定する方がよいと思いきや、その後は倦怠に耐えなければならない。男と女が倦怠を避ける唯一の方法は、二人の間を名状しがたいものにしておく以外にないだろう。夫婦関係が損なう大きな理由は単に飽きるということかも知れない。互いが互いの愛情を失う行動をしたわけでもないのに、飽きるという不可抗力には抗えないものだ。相手を飽きさせないさまざまな方法や、生活スタイルを一変させるなどがいわれるが、そういう努力をしてなお新しい相手の魅力には適わないかも知れない。

「畳とクルマは新しい方がいい」といったものだが、そう簡単に伴侶を取り換えるわけにはいかないもの。だから不倫なのだろうが、単なる火遊びやつまみ食い程度で終わればいいが、せめて不幸を育ててしまわぬための努力はあってもいい。よくいわれるのは「賢い人間はトラブルとトラブルをぶつけてとことん闘わせる」という。自分(妻)が迷惑している相手(夫)の行動と同じ行動をすることで、自分を守るのも賢明といってもいいだろう。ただし、女性は上手くやるので、夫が気づかない場合もある。

 



それならそれでよいではないか。夫への腹いせというより、ストレス解消には寄与するだろうし、妻の浮気が夫に分かったところで、文句をいわれる筋合いはないのだから。動かない氷山なら溶かしてしまえばいいし、先ずは自分の心に火をつけること。これを知性というなら、知性は欲求を満たすものでもある。自身の願いを遂げるために知力をつかってみる。恋人同士と違って夫婦は毎日同じ屋根の下にいる。気分がそぐわぬ時も顔を合わさなければならないので、ストレスの蓄積は恋人の比ではない。

会社の同僚や友人間で多くみられるのが、相手にいいように利用されていながらも、その人に頼みごとをいわれると断れない人がいる。だから、利用されることになるが、気の弱い自分と決別するためには、なによりも今までのそういう自分は間違っていると強く言い聞かせること。そういう自己否定からスタートする。自分がいい人だなんて思わず、バカでアホでダメな奴と徹底的に見下げる。そして、そんな自分と決別するために相手を失う覚悟をもって、とにかく「NO!」をいってみることだ。

中国の故事に「先ず隗より始めよ」とある。何ごとも身近な小さいことから初めてみよということ。今まで言えなかったのに「NO!」といったら相手も驚くだろうなどと余計なことは考えなくていい。相手は「変わったんだな」「変えようとしてるんだ」「(今まで利用されていたけど)賢くなった」くらいにしか思わないから、取り越し苦労はせぬこと。「バカはやめるんだ」と強い意志で自己変革をすればいい。人間関係は知らず知らずに上下関係ができるから、フラットに戻して対等に付き合う。