たくましさと強さは同じ意味か?字の違いから微妙に違うのだろう。こんな風に記されていた。「強い」は「敵や困難なことに負けない能力や精神を持っている様子」。「たくましい」は「いかにも強そうに見えて頼りがいがある様子」。「いかにも強そうに見えて…」ということだから、強くなくてもいいのだろう。「息子はたくましく育って欲しい」というところからしても「強い」ということが強調されてはいない。自分が、「たくましい男」と使うときはどういう男のイメージだろうか?

「何事にも流されず、微動だにしない安定感のある男」というのがすぐに浮かんだ。心が強くないとこうはなれないので、それなりの強さは必要だ。「結婚相手にはたくましい男性がいい」という女性は、たくましさをどう捉えているのだろうか。聞いても上手く答えられないなら、イメージ的なものかも知れない。「気立てのやさしい女性」というが、「気立て」とは何か?「他人に対する態度などに現れる、その人の心の持ち方」との説明からして、確かにそれが気立てのイメージだろう。

 

 

「気立てのいい男」などといわないことからして、「気立て」は女性だけに使われる言葉であって、男に対しては「気風(きっぷ)がいい」と使われる。「きっぷ」とは性格や心意気、気性を総合したもので、「江戸っ子はきっぷがいい」などといわれたりした。土地柄にも使われる「きっぷ」だが、なぜに江戸っ子はきっぷがいいといわれるのだろうか。一般的に江戸っ子の誉め言葉として「粋でいなせ」と使われる。「いなせ」はかつて「鯔背」と表記した。「鯔(いな)」とはボラの幼魚。

江戸時代、日本橋の魚河岸で働いていた者達のマゲが、「鯔」の背びれに似ていたために、そのように呼ばれるようになったと言われている。魚河岸の若者らしく、威勢がよく、きっぷの良い様をさしていたのだろう。言葉には語源があって、調べてみると面白い。知らないで使うよりもいいかも知れない。さてと、自分が「たくましい」のかどうなのかを知ることはできない。「やさしい」も同様、相手が感じること。ならば、「たくましい男」になるためにはどうすればいいのだろうか?

確かに自分は、「たくましい男」になりたいと青年期あたりから思っていたし、目標に掲げてやってきたが、一体どういう風にやったのだろうか?「他人のことをごちゃごちゃいわない」「卑屈にならない」「無用な自慢話をしない」とかに加えて、「友人や同僚の面倒見がよい」などは人から頼れる自分でありたいということ。これは性格的なものも反映されている。そういう性分なくして他人に対して面倒見がよいなどはいえないだろう。それらを含め、「自分はこうありたい」を掲げて実践した。

そのためには誰かの真似をするというより、嫌な人間を反面教師にするのが手っ取りばやいと感じていた。つまりは、「あんな人になりたい」よりも、「あんな人間にはなりたくない」という徹底した批判が重要である。同じように、自身の嫌な部分も批判をした。自分の嫌なところがあっては自分を好きになることはできない。言い換えるなら、自分を好きになるには嫌な自分を排除しなければならない。「できる・できない」はともかく、やろうと試みたのは事実で、それは正解であった。

 



「自分が嫌だ」、「自分が嫌い」などを口にする奴は少なくなかった。どちらかといえば女性に多かった。自分は中学一年の時に、クラスでもっとも頭の悪いMから「お前は自慢をする奴」といわれたことがショックだった。そんな風に自分はみられているということに初めて気づかされたとき、自分がとてつもなく嫌な人間であるのが分かったのだ。自分の嫌なところを直さないことには自分を好きになれないではないか。それで、「自分が嫌い」などといっていられるのは理解できない。

すぐには直らないにしても、直さないことには自分が自分でいられない。「あんな奴のようにはなりたくない」と同様に、「こんな自分なんかでいたくない」というのは嫌なものだ。どういう気持ちで、「自分が嫌い」などといってられるのか理解に苦しむ。嫌な奴がいても会わなければいい、付き合わなければ済むが、自分と付き合わないわけにはいかないし、いつでもどこでもいっしょにいるのが自分である。嫌な自分を放置しておくのが弱い人間なら、強い人間は自分を変えようとする。

モンテーニュは紆余曲折を経て、ようやく自己を発見しかけたが、それ以前の自分についてこう述べている。「私は私の対象(である自己)を確定できていない。それは生まれつき酔っぱらって朦朧と、よろめきながら歩いている」。自己描写は『エセー』の中心課題となっているが、『エセー』第三巻に至ってモンテーニュはようやく彼の方法を獲得したようで、それは自己描写の方法である。筆の赴くままに、その時々の瞬間における自己の姿を、さまざまな角度から捉えることが可能となった。

彼の言葉の多くから刺激を受けたが、彼が自身をつねにいかようにも統御できる柔軟で強靭な精神を、「あらゆる点で自身の主人にしたい」と述べているのはさすがである。「さすが」の意味は、そこまで自分にたどり着いたという評果である。自己を表現するのは難しいが、自己描写というのはさらに至難である。その結果として自己描写は彼の人間を作り、彼の道徳を規制する役目を果たしている。『エセー』を読みながら実感するのは『エセー』という書物がモンテーニュを作ったことだ。

 



そのことがどれだけ凄いことであるか。『刹那を生きるブログ』が、自分自身を作ったなどは烏滸がましいにもほどがある。が、そういう気持ちでいることを否定はしない。自分以外の他人に興味を抱くのは人間として当然だが、どういう興味の抱き方であるかがポイントとなる。他人との関係において、一定の距離を保ち、それ以上相手に踏み込まないことは大事である。そのためには他人に興味や関心を持たないのがよい。自分はそうではなくて、他人に興味を抱くが他人に踏み込まない。

特定の相手に自分の価値観を押し付けない。人の生き方を批判しない。これらは自らが自由でありたいなら他人の自由を尊重するのが鉄則である。相談に乗ったり助言をするのはキライではないが、求められてから行った。ブログに書きつける意見や考えは自らに向けたものへの復唱だったり、自身の信念の確認を文字であらわしている。「人間は自身が理解できないものほどいっそう信じやすい」ところがあって、疑義を抱いて深く掘り下げた思考をするのが面倒ということもあるのだろう。

そういう作業を行わず、安易に物事を信じたところで、本当に信じたといえるのか?神や霊魂を信じる人はいるが、信じるに値する根拠を見出しているのか?B・ラッセルはたくましく述べている。「私が神を信じないのは、キリスト教的な教義に何のエビデンス(証拠・根拠)も見当たらないからだ。神の実在を指示する数多くの議論を精査したが、どれも論理的根拠に欠けるものばかりだった。真実でないことを信じるのに実践的な理由などない。真偽が不明であれば判断を保留するしかない」。