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2017年6月16日(金)16時1分。

父親が天国へ逝きました。

肺癌でした。

7月末に四十九日法要を終えて、

昨日、納骨を済ませました。

喪主として、長男として、

僕なりに必死に現実とも向き合ってきました。

ようやく自分の言葉で文字で皆さんに、

ご報告出来る心境に至りました。

昨秋の11月あたりから、

微妙な体調の変化にいち早く気づいたのが、僕でした。

たまに見たくらいでは気づかないような、

ちょっとした仕草や表情の変化。

微かな喉枯れや痩せ方。

親父が背中を少し曲げて歩いている姿を、

たまたま実家の近くで見掛けたとき、

僕は、何か直感めいた嫌な予感を憶えました。

顔を合わせる度に、病院で精密検査を受けるように、

親父に何度となく頼みました。

本当に気難しく頑固で聞き分けの悪い親父で、

僕が親身に何時間も掛けて何度説得しても、

時に、感情を露わにして怒鳴り散らしても、

「ワシのことは、ワシが一番分かっとる。」

それしか言葉が返って来ませんでした。

僕は、脳梗塞か肺癌の前兆をずっと予感していました。

かなり高確率で、そのどちらかだろうなって。

母親にも弟夫妻にも親戚関係にも誰にも相談せず、

昨秋あたりから、大学病院や専門のお医者さんを、

寝る間も惜しんでいくつも自分の足で当たり、

ネットでも必要な情報や知識を集めて、

何冊にもノートに書き綴り、

入院や手術に向けて準備を始めていました。

昨年の9月に1枚目のCDアルバムをリリースして、

昨年末に「燃え尽き症候群」のような心境だと、

僕が何度もお話したり書き綴っていたのは、

このことが一番大きな原因でした。

とても音楽に集中出来る心境ではありませんでした。

そういう不調和が今年の3月くらいまで続き、

心労や不眠不休のような生活リズムが限界を越えてしまい、

僕が倒れてしまったことで、親父も責任を感じたのか、

ようやく重過ぎた腰を上げて、

何度かに分けて精密検査を受けてくれました。

でも、初動が遅過ぎました。

目に見えて日に日にどんどん体調が悪化していき、

呼吸をすること自体もしんどそうになり、

6月1日の親父の誕生日の日に、

肺癌の告知を大学病院で受けました。

僕はもう、覚悟はしていました。

ステージは、1と2の間くらい。

手術は体力的に、ギリギリ出来るかどうかの瀬戸際。

僕は、自分の時間が許す限り、

今年は、親父とずっと一緒に過ごして来ました。

さすがに相当ショックだった様子で、

一人きりになりたかったのか、

2時間くらい実家に戻って来ませんでした。

戻って来たときには、

袋一杯のアイスクリームを抱え、

自分のもう着なくなったお気に入りの服を、

声枯れして聞き取りづらくなった声で僕に渡そうとしました。

「違うんだよ、親父。

 そんなことして欲しいんじゃないんだよ。

 最後の最期まで生きることに固執してくれよ。

 不安でも怖くても逃げるなよ。

 悪いけど、そんなもの受け取れないよ。

 いい加減にしてくれよ。」

僕は、初めて瞳から溢れる感情を隠さずに流しながら、

親父に怒鳴り散らしました。

親父は、僕に見せたこともない達観したような表情で、

「ワシのことで、ありがとうな。

 お前にもお母さんにも、

 迷惑を掛け過ぎたくない。

 ワシの命だから。

 ワシが一番分かっとる。

 色々すまんな。」

どんどん食べれなくなり、

どんどん衰弱していき、

ほとんど喋れなくなり、

ほとんど動けなくなっていった。

癌という病魔の怖さを思い知らされた。

6月に入ってからの最後の2週間。

僕は、心臓がずっと痛かった。

正直、親父を見ているのが辛過ぎた。

でも、僕はいつも笑顔で励ますようにしていた。

救急車を何度も呼んだり、

看病や心労で疲弊していく母親を独りにしない為に、

僕は、僕が出来得る全てのことを率先してやりきった。

僕自身は、後悔は何もない。

そう言い切れるほど、ここ数年親父とは、

たくさんの時間や場面を共に過ごすことが出来た。

最後の最期の日も、僕が朝抱き抱えて、

親父を救急車に乗せた。

まだ体温や感覚は、僕の五感にしっかりと残っている。

癌特有の痛みの症状が出る前の段階で、

手術や延命治療を施す前の段階で、

苦しまずに天国へ逝けたことだけが、

嬉しい誤算だったかもしれない。

呼吸が止まってからの病院でも通夜でも、

僕は、気丈に振る舞い続けた。

喪主として、しっかりとご挨拶も親戚関係にさせて頂いた。

でも、告別式の最後の最期の出棺のとき、

これで本当にお別れなんだと心底から感じたとき、

亡骸に泣き叫ぶように親父の冷たくなった顔に手を当てて、

「ありがとう。」って、声を掛ける僕が居た。

そっと僕の背中に手を当てて支えてくれたのは、弟だった。

あのとき、親父を殴り飛ばしてでも、

首根っこを掴んで引きずってでも、

病院で精密検査を早めに受けさせるべきだった。

僕が、見殺しにしたようなもんだ。

今もその気持ちがずっと消えない。

僕は、自分を許し切れない。

今も文章にしながら、感情が瞳から溢れて来る。

悲しいとか寂しいとかよりも、

悔しい気持ちしかない。

親父が亡くなって10日もしないうちに、

大阪で開催したのが「オルフェウスの調べ vol.4」だった。

僕の誕生日を祝う為に開いたイベント。

でも、僕はSatoくんにもTAKUOくんにもcafe Roomさんにも、

足を運んで頂いた皆さんにも、

自分の本当の気持ちに嘘をつきたくなかった。

親父が亡くなったことを最後のMCで話したとき、

何人もの方々が僕の話に涙を流してくださり、

突然のことで、本当に申し訳ありませんでした。

そして、本当にありがとうございました。

まだ2か月しか経っていないので、

実感よりも不思議な感覚しかありません。

昨秋に、ROCKIN' ON JAPANさんに掲載して頂いたことも、

SPACE SHOWER TVさんでオンエアして頂いたことも、

誰より喜んでいたのが、親父だった。

僕のことをいつも色んな人に自慢げに「誇り」だと、

いつか、地上波でも僕の音楽が流れることを、

楽しみにしていたことを色んな人から聞かされた。

6月に入ってから、いつも台所の電気を最後に消すのが、

僕の役目だった。

親父は、僕が電気を消しに来るのを分かっていたから、

そのときにいつも握手をして笑顔で、

「おやすみ」と言うのが日課だった。

ずっと、毎晩僕の帰りを待っていた。

それだけが最後の楽しみだったって、

母親が泣きながら、僕に感謝を伝えてくれた。

今も泣いてしまう自分が居るけど、

僕は、誰より背負う覚悟を持って生きてもいる。

どうかこの思いが、天国に届きますように。

「親父らしい不器用な生きざまと死にざまだよな。

 お母さんのことは、僕に任せてもらって大丈夫だから。

 いつか僕がプロの音楽家になりたいと覚悟を持って、

 あなたに話したとき、

 あなたは、背中を押してくれたよね。

 僕は、勘当される覚悟であなたに話したのに。

 お前は、どんなときもやり切ってきたから、

 ちゃんと期限を決めて、

 一度きりの人生を全うしろって。

 嬉しさと申し訳なさで泣き疲れた大切な記憶。

 勝負師だった、あなたとの約束。

 必ず守って、必ず叶えてみせるから。

 もう少し生きていて欲しかった。

 もう少し一緒に笑っていたかった。

 思いを言葉に文章にするだけで、

 こんなに今も涙が溢れて来るんだよ。

 あなたの命かもしれないけど、

 あなただけの命じゃなかったんだよ。

 僕があなたに言い続けたのは、それだけ。

 世界で一番だいすきで、

 世界で一番だいきらいだった父親へ。

 言いたいことは、まだまだ山のようにある。

 だから、続きは天国で。

 さよならは、言わない。

 ずっと、僕の心の中であなたは呼吸してるから。

 あなたの分まで。

 あなたの息子であることを誇りに思います。

 僕を生んでくれて本当にありがとう。」
 







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