東京で生まれて、すぐにこの地に引っ越してきた。理由は自分の健康上の事で母方の実家も近いと言うのが第一のようだ。しかし自分にとってはこの瞬間から地獄のような苦難の道を歩むことになるなど想像だにしていなかった。農家の母屋を借りての借家住まいは、今でこそ「田舎暮らし」なんて悠長なことを言っていられるが、子供心に新築住宅が建ち始めると徐々にかやぶき屋根と言う事に負い目を感じ、引っ越してきた子供たちにはその事をからかわれた。幼稚園に入園すると更なる地獄が待っていた。送迎バスでは他の園児たちから毛嫌いされ、幼稚園内で行われていたオルガン教室のある日はたった一人取り残されて、送迎場所に降りて母と共に帰宅する事もあった。時には母が迎えに来ず、保母さんと家路を歩く事もあった。

多感な時期と言える小学校から高校までの12年間は、執拗なまでのいじめを受けてきた。想像してもらいたい。12年間もいじめられ続けていたら確実に不登校になるか自ら命を絶つだろう。場合によっては精神崩壊を来して社会生活そのものが出来なくなるだろう。自分もいじめを教師に訴えてきたが、教師たちは自らの出世と保身が第一と見えていじめた側の生徒の方ばかり持ってきた。登校拒否しようものなら親に叱られ「やられたらやり返せ」と叱責された。行動を起こせば結果は日の目を見るより明らかで、倍返しどころか3倍4倍返しでぼろ雑巾のようにされた。中学の時には顔に焼けた鉄板を押し当てられ、大やけどを負わされたりバットで額を殴られて瞼の上に内出血を起こすほどの怪我を負わされた。いずれもやった方は謝罪したけど、それもうわべだけで数週間の後にはその事など無かったかのようにいじめのグループに加わっていた。いじめのレベルは小学校から中学校、そして高校とエスカレートして、ついには指の骨を折られて1か月の重傷を負わされるところまで来てしまった。このままでは生命の危機と思い高校に退学を申し出たが校長・生活指導の教諭・学年主任・担任までもが出てきて、退学の申し出を取り下げざるを得ない方向に仕向けられてしまった。この時点で高校への信用が失せてしまった事もあり、卒業後の進路は学校に頼らず自分で探して、最後の最後で進路指導の教諭に資料を持ち込んで面談を取り付けさせた。そして卒業式も式が終われば総攻撃を受けるだろうと思いボイコットした。これが高校への最大の仕返しとなったと思う。

社会に出てからは、自分なりの目標を立ててキャリアアップを図ってきたがバブル崩壊でそれも頓挫してしまった。その後面接を数十~百数十社受けるもすべて不採用。履歴書を何通もバッグに入れて再就職先を探しても就職氷河期と言われた時代。帰宅して郵便受けを見ると面接した企業からの不採用の通知と履歴書。こんなのが続けば正規雇用の道を諦めざるを得ないのが世の常かも知れない。あの頃はとにかく仕事を探すのに精いっぱいで風俗店のスタッフ募集の面接も受けたくらいである。ようやくの思いでアルバイトを見つけたら、今度は父親が起こした交通事故の後始末をする羽目に。任意保険の金をギャンブルに使ってしまったのがそこで明るみに出たのだが父親は反省の色もなく、相手からの厳しい指摘を自分が受ける事になり病院への送迎をすることで誠意を見せようとしたけど、結局は自分が罵詈雑言をうけ、精神的にも極度のストレスにさらされてきた。さらには自宅の火災ですべてを失い、父親の介護に追われ仕事を転々とする羽目になった。その後に就いた仕事はどれも人間関係に苦しめられた。ちょうど中学・高校の時のいじめに似たような感じだ。会社側は自分の意見はほぼ無視して、リーダー職・非正規から正規雇用に格上げされた従業員の意見が絶対だと言いたげな対応である。これ以上ここにいたら確実にうつ病が悪化するだけだと確信した。結果としてこの会社を辞めた。

 

自分の過去を振り返ってみた。いい思い出は皆無で思い出したくない事ばかりが脳裏に表れる。もしかしたら、この場所が自分にとって災難ばかりもたらす場所なのかもしれない。ここで暮らし続けてもいい事が起きるとも思えない。

 

いい加減、自分の人生に少しでもいい思い出をつけ足していきたい。このまま災難ばかりの人生では、何のためにこの世に生まれたのかすらわからない。埼玉と言う土地は自分にとって厄災の地だったのだと言って良いかもしれない。

 

新しい年に埼玉と決別する。どこを新天地とするかはわからない。このまま無宿渡世で道端で息絶えていたとしても、それが自分の運命だったのであれば仕方ない。