小学生の頃の思い出で1番印象に残っている事は? 子ども時代は摩訶不思議な時間軸也
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と~おき~や~まに~ひ~はお~ちて~♪
ドヴォルザークの新世界・・・この音楽を聴くと下校の時間を思い出す。
ランドセルをからって(背負って)階段を降りて渡り廊下の冷たいコンクリートの上を歩く感触。土曜日の半ドンはこの時間が一番うきうきとしたものだ。
早く帰れる~帰って何しよ・・・上履きを洗って・・・あそうだ・・・インコ達のカゴを洗ってやらなきゃ・・・。
土曜日の四時間目は皆がソワソワしている。「学校から早く帰れる」たったそれだけのことをとてもうれしく思っていた。もしかしたら日曜日よりもわくわく感があったかもしれない。
大人の「何しよう」は、あれをやらなきゃこれをやらなきゃと責務のようなもので埋められる。
子どもの「何しよう」は、あれやろうかなこれやろうかなと楽しみのようなもので埋められる。
それは実に小さな世界。低学年のうちなんかは、ちょっとした中休みにもこっそり冒険ごっこが行われる。鍵がしまった理科室や視聴覚室を窓からこっそり覗き込む。人の気配も感じられない部屋のなかにも陽が射してよく見ると小さな埃のようなものがチラチラと舞っている。
棚を見ると、顕微鏡や天秤や、白くぬめぬめとしたものが浸かっているホルマリンの瓶が並んでいる。掃除当番以外、中学年や高学年と大きくならないと入れない何か特権のような雰囲気をかもしだしている特別な空間。
あの時は、校舎の片隅にある木造の建物にまで足をのばしてみた。
どの学年も使う予定はないのだろう、こちらは人っ子ひとりいない。開かれた板の間の廊下を風が吹き抜けていく。奥の部屋は物置に使われているが、手前の一部屋は図工室となっていた。
何度か先生に連れられて、授業を受けたことがある。インクやラッカーの何とも独特な匂いとともに、何やら大きな旋盤機械が置いてあった。「何だろう・・・」と触ろうとすると、怪我をすると先生に注意を受けた。何だか本に載っていた職人工房みたい・・・と思いながら、小さな目には、校舎のあちこちにワクワクするような特別な場所が存在した。
当たり前だが、部屋の扉には全部南京錠がかかっている。古い木造の建物だから、風が吹くたびにカタカタと窓が揺れる。ほとんどが半透明のすりガラスだが、何枚か透明のガラス板がはめ込まれていて、そこから中の様子を伺うことができた。
「何があるかな~」とその時も好奇心いっぱいに、一枚の透明ガラスの窓枠から部屋の中を覗いてみた。
すると、そのガラス窓の目前を白い体操着の腕がすうっと通って行った。
間違いない、袖口の青いラインも確かに見えた。あれ?誰かいるのかな?と思ってもう一度よく部屋の奥まで視線をとばす。
?あれ・・・誰もいないよ?
部屋の隅まで覗いてみても、見えるのは機械や板やらなんやらが置かれたいつもの部屋。
あ・・・そうだ、使っていないから鍵がかかっているのに・・・・あれ?
じゃあ・・今のは・・・誰?
暫くすると予鈴のチャイムが外の校舎から響いてきた。やばっ・・・戻らなきゃ・・・とわたしは急いで校舎へと駆け戻った。
怖いとか何とか思ったわけではないが、何となく奇妙な感じがして誰にも言うことができなかった。そしてそれからは、一人でそこに近づくのをやめることにした。
今にして考えると、子どもの発達途上における視覚認知の誤認のようなものだろうと思う。空想と現実を行き来する事ができる、子ども時代に与えられた特権のようなもの。
小学校の様々な行事や、先生たちにたくさん怒られたり褒められたり・・・失敗や失敗や失敗や・・・失敗(成功はないんか!・・ソチラハ忘レチャッタ)や色々な事が起きた六年間の思い出もたくさんあるのだけれども・・・この記憶は、たまにゾワッと背中を撫でるようにしてリアルな空気感を交えて思い出す。
もしかしたら、こういった体験が学校の七不思議のようなものを作り出すのかもしれない。
日中は児童が賑やかに騒いでいる教室も、下校後の静まり返った廊下や教室は何ともいえない不思議な空気感が漂っている。
大人には真似できない、子ども達の強烈なエネルギーが留まり蓄積していったものがあるのだろうか?同じ人間だというのに、大人になった自分には小っちゃいくせに恐ろしいほどの情熱と好奇心と喜怒哀楽の膨大なエネルギーの塊に太刀打ちできないことがある。
最初に本格的な小学校が開校したのが1869年(京都の小学校)らしいので、明治からある学校なんかは創立150周年を迎えたところも多い。
何千何万と子ども達が過ごし巣立って行った学校もあるだろう。たくさんの子ども達のエネルギーと親や先生地域の人々の通わす目がずっと積み重なっていった場所。
廃校になった学校もたくさんあるけれども、確かにその場には子ども達の持つ情熱が今でもしっかりと染みわたっているのかも知れない。
運動会 七つと離れた子等の団結に 轟く声の愛らしさ
子どもの声がちょっと・・・と思っても、幼児や児童のうちはしゃあない・・・声域が高いのだもの。これが中高となれば随分と低くなり、体育会系の男子率が高い学校になると、重低音の効いた野太い声が地鳴りのようにして響いてくるさ。
中年からしてみれば、どれも子どもの愛らしいエネルギー砲のように思える。だって・・・子どもがいなくなると途端にその地は静まるようにして荒れ果てて、「兵どもが夢のあと」と呟くような寂れたところになるのだから。
