【週刊しゅうじ新潮】え~!! あれから、もう 10年…… | 西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

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京都西山の麓に育った子どもたち、
1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
このブログはこれからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

著:しゅうじ(下田S:2年4組、3年4組:テニス部)

 

「時の経つのが、早すぎ(驚)」

 

誰かが、言ってました。

「生まれてからは、よちよち歩きから、

 大勢の人と触れ合っていく短い10年。」

「10代の頃は、濃厚だけれど、

 淡いキュンとくる時代、短い10年。」 

「20代の頃は、まだまだ希望にあふれ、

 まっすぐに駆け抜けた短い10年。」

「30代の頃は、

 全てに変化の多かった短い10年。」

「40代の頃は、少し落ち着きつつあるが、

 後半生を左右する短い10年。」

「50代の頃は、今、まさしく、

 あれからの短かった10年。」

 

福岡伸一先生(著;動的平衡 等 多数)が、

このようなことを言われてました。

「人間の細胞は、

数日~数か月で全てが

新しく置き換えられている。

まさしく、10年間で何十回、

何百回と別人になっているのです。」

自らのアイデンティティーを支えるものは

 “記憶” でしかないのではないか。

只、それすらも常時つくり替えられている。

 

 

恥ずかしい記憶も、忘れ去りたい記憶も、

後悔しても仕切れない記憶も、

悔しすぎる記憶も……。

そんな記憶も自分のなかでは、

美しく書き換えられているような気がします。

 

みんなとの共通したアイデンティティーが、

みんなを引き寄せる力になるのでしょう!

 

故郷を離れて約30年、

実家(東向日)に戻ったとき、

しばしば立ち寄るお店のひとつに

向陽小学校正門向い側のカフェがあります。

2022年11月、息子と立ち寄り、

なぜか急に懐かしく、

二人で向陽小学校の中を散策。

運動場では、少年野球の練習中。

正門周りの雰囲気は変わっていませんでしたが、

狭く感じました。

「記憶と実際との差異」発見。

 

晩秋から初冬だったこともありプールの風景は、

北風に枯れ葉が舞い揺れている濃緑色。

小学校何年生だったかなぁ?

夏休みのプール開放日に一人でプールに行き、

「誰か友達が来てるやろう。」と思っていたら、

なんと、友達と誰も会うこともなく、

周りの子ども達は楽しそうでしたが、

私は一人プールで遊び、

さみしく帰宅したことを思い出しました。

多分、肩を落とし、

トボトボとうつむきながら歩いていたことでしょう。

 

幼かったころの向陽小学校入学式、

情景やその時の不安や好奇心、

少しドキドキ、

少し興味のあった自分の心持ちも良い思い出です。

なぜか「講堂に入っていく自分を後ろから見つめている光景」

が目に焼き付いています。

自分で自分は見ることはできませんが、

これも「記憶の書き換え」のような気がします。

 

向日神社での七五三参りも幼いころの

記憶に残っているひとつです。

これは、不安やドキドキ感、

好奇心のような今から思えば、

慈しみたい記憶ではなく、

只々「人が多いな、

暑いな(着物を着ているせいです)、

しんどい、はよ帰りたいなぁ。」と、

まぁ、単純な感情しか思い出せません。

不思議なもので、

これも私が境内左側から神殿に入っていく様子を

自分で見ている光景です。

自分がその時見た光景に、

その時の自分を貼り付けているのでしょう。

 

記憶とは、

今を生きる“信頼の証”のようなものなのでしょうか。

お互いの “今” を尊重し合える仲でいたいですね。

 

チョット “キザ” かなぁ? 

カッコ付け過ぎ?

 

と言うことで ♫デデン♫ 

お後が、よろしいようで。

 

では、会える時をたのしみにしてます。