瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』 -4ページ目

瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』

生きることも死ぬこともままならず、しみったれた暮らしの中で日々懊悩する憂いの放浪者。
卑屈なまでに自らを蔑む繰り言は、もはや美しくさえある。   

いまもって萩と荻の区別もつかなければ、カレイとヒラメの見分けもつかぬ始末です。
いわんや、そんな自分にコンピュータを理解する分別の無いことは百も承知でしたが、 ある時またしても己を滅することをやり損じた私は、虎穴だろうが竜穴だろうが死ぬよかましだなどと見苦しく泣き叫びながら、大わらわにこの場所へと逃げ込んだのでした。
もしも私に男子としての一分が備わっていたなら、あるいは何らかの矜持を持ち合わせていたなら、端から浅ましく生きることを良しとせず、そつなく暮らせたのでしょうか。
果たして、人が生きる場所とは、尽くす場所とは、死ぬ場所とは。
もはや容易に老い先を数えられる私にとって、それらはきっと同義なのでしょう。
ならば、師の教えが仮に邪道であろうと一切躊躇せず、何事か一つでもしかと肝に銘じ、活路を開く助けにしたいと考えるものであります。
ゆく先々、恥の上に恥を塗り、失望と絶望を交互に積み重ねたとて、どのみち生きてゆく他ないのですから。