瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』 -3ページ目

瀬戸内 ジャクソン フェルナンド 『 100年のぼやき 』

生きることも死ぬこともままならず、しみったれた暮らしの中で日々懊悩する憂いの放浪者。
卑屈なまでに自らを蔑む繰り言は、もはや美しくさえある。   

足りない頭でコンピュータに向かっている様は、まさに埒があかぬこと「ざるで水を汲むが如し」といった具合ですが、何もかもが私を一寸でも前へと導かんがための修練と思えば、多少の難儀も受け入れられるというもの。
それでなくとも昔よりこのかた、何者かに踏みつけられて這いずってきた訳ですから、もはや土くれで地肌の色も分からぬくらいの有り様。
どうせ今日これ以降も変わらず這いずってゆくのなら、この身を被った土くれをわざわざ洗い落とす手間も省け、却って得をしたような気持ちにさえなります。
思えば物心ついた頃より、この場所から、この瞬間から、この運命からと、その得体の知れぬ何かしらより逃避せんと必死にあがいて参りましたが束の間忘れることはあったにせよ絶えず私に付きまとって離れなかったものの正体。
それはまさしく生きるという行為そのものであり、つまり死をもって避ける他には到底不可避のある種のしがらみから、無節操に逃れんとする馬鹿を私は延々とやってきたのでした。
時として、人はしがらみに潰されもしましょうが、一方でしがらみこそが人の肝心の拠りどころのようにも思います。
だとすれば、こんな私を生かすのもまた、自らの血を分けた子という取るに足らぬしがらみなのかもしれません。