昔々の、

といっても40年弱前の体験ですが、

同性から、浴場で触られたという、

痴漢体験を受けたことがあります

その後しばらく、

ホモフォビア(同性愛嫌悪)の感情に、

とらわれていました

 

その時代、まだセクシュアルマイノリティ

(今は多数者も包摂するSOGIの方がよいとも思います)

について、

カムアウトして教えてくれる存在は、

ほぼ芸能人のみでした

 

私が理解を進め、

何とか嫌悪感を払拭できたのは、

当時多数の出版社が競って出していた、

多く今は無き、

オムニ,クオーク,日経サイエンス,ニュートン等、

グラフィックな図版にあふれた、

科学雑誌でした

大学農学部の図書館で、見放題でした

 

それらの科学雑誌では、

競合うように男女の性の仕組みを、

特集していました

 

ヒトは近縁の動物種と同じ多様性を持つ生き物

ヘテロセクシュアリズム(異性愛)だけが、

生物種としてのヒトの性の唯一の在り方ではないこと

 

また、性自認(自分の存在がどちらか)、

性指向(自分の心が惹かれるのがどちらか)、

それぞれ、

雄か雌か、どちらでもないか、あるいは両方か

このすべての組合わせの中で、

たまたま多数派の、

第1次性徴と性自認が同じかつ、

性指向が反対側のグループが、

数の上で多数派というだけのこと

 

当時の統計でも、

何らかの性的な少数派は、

少なく見積もっても5%、

もしかすると10数%に達する可能性がある

ヒトは霊長目ヒト科(上科)の中でも、

性の多様性を、

保持する方向に、

今も進化し続けている

 

そのような基礎的かつ本質的知見を教えてくれました

統計学上で考えても、

「異常」というレッテルは、

ウソというしか道はないのです

 

私は間違って、

同性愛への嫌悪感を抱いたけれど、

問題の本質は、

たとえどのような性自認,性指向であれ、

許されないのは、

ひとえに、性暴力なのだということ

そこに思いが至り、本当に救われたことが、

その後の自分の立ち位置を、

定めたと思っています

 

最近になってそれほど使われなくなった表現に、

「生物学的性」という言葉があります

それは性自認,性指向のような、

自らの心でなく、

他者から判る、

外形的な性(性徴)のことを指します

 

そこにはおそらく、

「生物学的」とされるものは、

「精神的」「形而上学的」なものより、

劣っているという、

二元論ともつながりがある

もしかしたら優生学という悪魔を、

またもや導いてしまう考え方ではないかと、

私個人は、

セクシュアルマイノリティ当事者や、

応援する友人たちが、

安易に使うのに反対してきました

 

ではどのような呼び方が良いかと聞かれ、

単純に「外形的性(性徴)」で良いはずと、

答えていました

 

性自認も性指向も、

私たちには当たり前に与えられた、

生物学的性の本能なのです

 

生物種が生残るためには、

将来の環境激変に備える、

一見非効率的に見える多様性が、

不可欠なことは、

進化生物学では定説となっています

 

性の多様性も、

全く別の言い方をすると、

神から与えられた賜物と、

言切ってよいと、私は思います(2023.5)