仏教にある空観に基づき縁起の本質を理解しながらこの現世で生きること、それは仮観に生きること、つまり仮の世界で生きることでもある。


しかしながら私たち人間の多くは実観に生きている。


金だけ、今だけ、自分だけ、現実世界がすべてと考え生きること、それが実観に生きることである。


私たち人間が現世で正しく生きるには精神世界でもある空観を理解しながらこの世を仮の世界としそれを受け入れ過ごすことが必要になる。それが仮観に生きるということである。


しかしながら仮観から空観に偏り過ぎると現実の日常生活に支障をきたす。


逆に仮観に偏り過ぎると物質や表面的なものに対する執着に囚われ、生きるという本質を見失ってしまう。


このため私たちは空観と仮観を行ったり来たりしながらそのバランスの中で生きる必要がある。これが中観や中庸に生きると言われるものである。


俗世側の仮観に偏りすぎると生きるという本質から離れてしまい、しかしながら精神世界の空観に寄りすぎてしまうと現実離れしすぎて日常生活に支障をきたしてしまう。


その一方でお金、物質、地位や身分、所有など、目に見えるものがすべてという「実感」に生きるのは論外であるが、残念ながらほとんどの人間がその実感に重きを置いて生きている。もしかしたら今や肉体を去ったご先祖の方々とて今だに俗世界の概念である実感に生きている方々が多く存在するのかもしれない。


お釈迦様により説かれた縁起、その後の大乗にて龍樹様により説かれた空(くう)に基づく空観に触れながら私たちは仮の世界、仮観にて過ごす必要がある。


更に私たちは空観に偏りすぎず、仮観にも偏りすぎず、それらを行ったり来たりしながら中観中庸にてバランスを保ちながらこの日常を過ごすことが重要となる。


このバランスを保ちながら、世俗に染まった実観に生きる他者人間に心を乱されることなく心の平穏を保つことが出来れば目の前の景色は変わる。


周りの景色が変わるのは周りが変わるからではない。自身が変わるから周りの景色が変わるのである。


空観と仮観を行ったり来たりしバランスを保ち中観中庸に生きるからこそ現世では心の平静平穏が保たれるのである。私は自らの経験と体感からそう考えている。


にも関わらずこの世ではいかに身勝手で無責任な誤った導きがなされていることだろう。


流される人間は自己責任とはいえ、自己に酔いしれた上から目線の偽善に塗れた偽りの指導者により流される人間の姿はなんと悲劇的なことだろうか。


それら導きにあるのは一部の者たちによる身勝手な価値観の押し付けであり、偽善者たちであり、人間や地球に対する愛は全く感じられない。


彼ら偽りの指導者が本記事で触れたような天台における一心三観の観想法を理解し取り入れそれを人間の霊性の向上に役立てることはないだろう。仮に理解したとしてもそれをする気もないだろう。


人間は目に見えない精神世界のことは無知であるが、逆に人間であるからこそ人間というものに対する無知さや偽善は即座に見抜く。


一人でも多くの人間が今の現状を見て眠りから目覚めることを願ってやまない。







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