親の劣等感による偽装された「あなたのため」を自分への愛だと考え信じる子は将来生まれる我が子に対しても親と同じことをする。
夫の依存心による偽装された「君のため」を自分への愛だと考え信じる妻は、将来生まれる我が子に対しても夫と同じことをしてしまう。
それらをする本人たちは「自分は相手のためにそれをしている」と本気で思っている。それらの正体は劣等感や相手に対する依存心による自己本位な愛なき行為であることに加害者自身が気づかない。
そのようにして劣等感や依存心は正当化され、偽りの愛の連鎖が親から子、子から孫へと代々続いていく。
厄介なことに、一家の主である家長は仮に未熟者であったとしても家長であるという理由だけで生まれながらにしてその権力を持つ。
その家系に生まれたというだけでボンクラで適正がないにも関わらず親が築き上げた商売を継ぎ、権力を持ち、お金の力で人を服従させ人を使う。
彼ら未熟な者の支配下に置かれ隷属しなければならない者たちはある意味悲劇であり不幸である。
教育が重要であることに間違いはないが、間違った教育を受けて育った大人に対する再教育ほど難しいものはない。
親の劣等感や依存心はなぜ子や孫に伝染していくのか。
それは冒頭にも書いたが、受け手である子が親の「あなたのため」を「本当に自分のため」だと受け取り、それが親の愛であり正しいものだと解釈することにより自分も我が子に同じことをしていくからではないだろうか。
その連鎖を止めようにも間違った教育を受けてきた自我の確立した大人に対する再教育は容易ではない。
彼らの多くが聞く耳を持たず、場合によっては反発と逆恨みが返ってくる。「誰に向かって言っているのだ」となり「オレ様」に対する教育指導は困難を極める場合が多い。
教育は幼少期から正しくなされることが重要であるが、その幼少期に関わるのが親である。
親とは人間であり人間とは「精神+肉体」により初めて人間として成り立つ。精神が子供のままでも肉体が大人になれば大人の人間であり社会では大人としての振る舞いを求められる。「私は見かけは大人ですが精神は子供なのです、大目に見てください」は社会では通用しない。
未熟な親は我が子を自分の思い通りにしようとし自分の支配下に置こうとする。未熟な夫が妻を束縛し自分の支配下に置こうとするのも同じである。彼ら親や夫に対して口答えや反論などあってはいけないのだ。その目的を達成し支配するためにのために親や夫は子や妻に「偽りの愛」を語り服従を強いる。
「自分のため」を「あなたのため」とする偽りの愛であり、その偽りの愛を真の愛と誤解釈した者が同じことを他に対してもしていく。それが劣等感と依存心の連鎖となる。
そのような私たち人間を見て「他人事」となさる霊的存在の方々がいらっしゃるかもしれないが、前述のように人間とはそもそも「霊体+肉体」であり、精神とは霊性そのものであるからこれは決して他人事ではないようにも考える。
少し話題を変えたい。
私たちが身を置くこの俗世では2種類の人間に分別することが出来る。
「生きている人間」と「ただそこにいるだけ」の人間である。
「生きている」とは(考えている)ということであり、「ただそこにいる」ということは(ほとんど何も考えずに呼吸だけしている)ことであると私はよくそのように例えてその違いを表現する。
生きている者(考えている者)は事が思うように運ばず失敗を繰り返す時、なぜ思うようにいかないのかを考えこれまでの行動や自身の心のあり方を振り返り内省することにより自ら気づきを得て学び成長する。
一方、ただそこにいる者(ほとんど何も考えずに呼吸だけをしているような者)は思うように事が運ばないその理由を考えない。
それどころか事が思うように運ばない原因を他人のせいにしその原因が自身あることに気づかず認めないため何度も同じ行動を繰り返し何度も同じ失敗を繰り返す。
劣等感も依存心もすべて自身の内側の心にあるものだが、それを他の者に原因があるかのようになすりつけていくことによりその連鎖は続いているようにも見える。
その「なすりつけていくための道具」が権力であり、その権力とは家長、上司、身分、位、役職などいわゆる目に見える「肩書」である。
その権力にて自己の至らなさを力技で他者にすり替えるのは未熟者のすることであり、卑怯者であり、勘違いも甚だしく、そして何よりもそれらは恥ずべきことであると私は思う。
少し話はそれるが、こちらの世界の進学塾や予備校などでは学年ごとレベル別に3つ程度のクラスに分けることが多い。
優秀な者はAクラス、普通はBクラス、基礎から学ばなければならない者はCクラスとなるわけだが、更にもう一つ忘れてはならないものがある。
入学試験で不合格であり、そもそもどのクラスにも入れない入り口での不合格者のことだ。
その道を目指す学校に入学するにはそもそも入学試験に合格しなければ入学できずその学びの道にすら入れない。なぜなら目指す目標に向かうために最低限求められる基準というものを満たさなければ一番下の基礎クラスの授業でさえ理解出来ないからだ。
しかしながらこの世では試験が不要であり、父や祖父の地盤と金、口が達者で弁が立てば無知で世間知らずであってもなれる職がある。それが政治家や議員と言われる国政を司る重責な職であるというのがなんとも皮肉なものである。その結果、今の日本がどのような有り様になっているかはここに書く必要はないほど周知の事実である。
我が身大事の保身や既得権益と金にしがみつき、情などにより適正のない未熟な者に資格や権力を与えると国を滅ぼすことにつながるということをこれにより改めて認識したい。
話を劣等感と依存心の連鎖の件に戻すが、これらはある意味では愛に対する間違った認識により必然的に起こっているものだと私は考えている。
人は自己の身勝手な行為を平気で「あなたへの愛」と偽り語る。そしてそれを語る本人もそれが真の愛だと本気で思っている。それ故にそれが叶わず相手が自分の思い通りに動かなかった時、猛烈に怒り、狂い、相手を恨む。
語る側もそれを聞く側も双方がその愛は偽りの愛なのかそれとも真の愛なのかを見極める必要がある。そしてそれは口で言うほど簡単なことではない。
人間界において偽りの愛が連鎖することは既に目の当たりにしているが、願わくは真の愛も連鎖し光のごとく広がることをこの目で確かめたい。
そのためにはまずは間違った優しさや情などによる偽りの愛とは何かを知る必要があることは言うまでもない。それを知らずして真の愛の連鎖や広がりを確認することなど出来ないものと私は考えている。
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