人は相手のおかしな話を見破れない時がある

 

 

姑息な者は自分の要求を通すために8割か9割の真っ当な話の中にとんでもない話を1割か2割混ぜてくる。

 

そうすると話を聞いた者にはとんでもない1割か2割の話が真っ当な話に思えてしまう。

 

 

人は8つか9つの真っ当な指示の中にとんでもない指示を1つか2つ混ぜる。

 

そうすると指示を受けた者にはとんでもない1つか2つの指示が真っ当な指示に思えてしまう。

 

 

多数の中に少数を混ぜ込むとそれがとんでもない話、とんでもない指示であることに気づかなくなる。

 

 

姑息な者は9つの正論の中に1つの道義的に間違った論理を混ぜてくる。

 

そうするとその論理を聞いた者には道義的に間違った1つの論理まで正論に思えてしまう。

 

 

人はあることを正当化するために8割から9割の真実や正論で包んで身勝手な「我」を差し込んでくる。

 

「その9つは分かりますが最後の1つは矛盾していませんでしょうか?」と人は言えない。

 

最初の9つで人は相手に飲まれてしまう。

 

「それはそれ、これはこれ」と判断できない。

 

一気に押し通されてしまう。

 

そしてその通してしまった1つのことに全体を支配されてしまう。

 

相手が自分より上の立場で権力を持つ者であれば尚更である。

 

 

この手法は常套手段として日常で使われる。

 

「一桃腐りて百桃損ず」ということわざがある。

 

一つ悪いものが出ると、その影響が広く及ぶことであり悪影響はすぐに他に及び染まり易いことの例えである。

 

人は99個の正論という多数の桃の中におかしな論理(腐った桃)1個だけを混ぜて100個の桃として差し出されると流されて受けとってしまう。

 

相手の勢いと相手の人柄や地位や役職など先入観で判断してはいけない。

 

中に混ざっている1つの腐った桃は箱の中の桃すべてを腐らせる。

 

 

「それはそれ、これはこれ」

 

「その話は分かるが、今話しているのは別の話だ。」

 

「ごっちゃにして論じてはいけない。」

 

そう言わなければならない。

 

流されずに止めなければならない。

 

 

多数の正論の中にたった1つだけおかしな論理を混ぜてそれを通そうとしてくる。

 

それを絶対に見逃してはいけない。

 

 

慢心と油断が組織を滅ぼす。

 

自分の「身勝手な我」を通すためにそれを多数の正論で混ぜ合わせて全体を正当化し論破してくる。

 

 

しかし多くの人は言葉巧みに操られ勢いに流され相手の話に思考がついていかず、つい許してしまう。

 

つい受け入れて同意してしまう。

 

 

「千丈の堤も蟻の一穴より崩れる」ということわざもある。

 

千丈もある堅固な堤も小さなアリの穴がもとでくずれることもある。小さな誤りやわずかな油断がもとで大事をひきおこしたり失敗したりすることがあるという例えである。

 

 

こちらの現場で何度もそれを見てきたことによりその手口が頭に焼き付いている。

 

この手口は多種多様に姿を変え多くの場面で用いられる。

 

 

一見簡単な話のようで無知な者や頭の固い者は簡単にやられて突破されてしまう。

 

 

 

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