さて、池袋、天神、心斎橋、と開催された4か所のうち3か所を所用とともに制覇し、飾られた衣装を見てきた私だったが、仙台のみ行けなかった。

・・・仙台は地理的に遠かった。そして、東京や大阪、博多とは違い、足を運ぶ用件も特になかった。これが名古屋だったら行けたのに、と思う。そうだ、どうして今回は名古屋ではないのだ? 

 

東京、大阪、博多、名古屋・・・地方へのコンサーツアーは別として、最近開催される座長公演やディナーショーの開催地はこの4大都市に限定されていた・・・。

そう、集客を望む場合、この4大都市を選ぶのは当然ではないか!それが、今回どうして名古屋ではなく仙台だったのだろうか?「Salvatore Cuomo」は名古屋市内にも多数あるというのに。

 

仙台・・・と聞いて、私が最後に仙台を訪れたのはいつだったろうか?と、ふと考えた。・・・7、8年前に仙台で研究会があり、足を運んだ時が最後だ。研究会のパンフレットに「震災復興祈念大会」と副題が添えられていた。研究会の目的は「震災復興」とはまったく関係ないので、この副題は大袈裟な気がした・・・ただ、参加者が全国から集まるので、開催地には会場運営費の他、おのおのの宿泊費、食費などの金銭が落ちる。ならば、まだ震災の傷跡がぬぐいきれていない東北で開催しよう、ということになったのだと思う。

震災後の仙台を訪れるのは、これが二度目。その前は震災後間もない頃だった。

 

東日本大震災から2か月後、私は石巻にいた。

仙台に宿泊し、毎日石巻まで車で通って救護の一端を担った。まだ余震が続いていて、朝同じグループのメンバーと顔を合わせるたび、「昨晩はずいぶん揺れたね」というのが挨拶になっていた。

毎日向かったのは避難所になっている小学校で、そこを拠点にいろいろ回った。

小学校の各教室では津波で住居を失われたたくさんの方々が寝泊りをしていた。だから、私たちは与えられた場所にとどまり、被災された方々の生活区域にはあまり入らないよう、用もないのにうろつくような失礼な行為はしないように、そして出会ったときはきちんと挨拶するように、と指示を受けていた。

ただトイレはその生活区域にあり、一日に何回かはどうしてもエリア内に入ることになった。だから、なるべく回数を控えて、数時間ごとにスタッフ同士連れだって行くようにしていた。

被災された方々は、日中は被災した自宅のかたづけや道路の土砂かきなどをされるので 小学校内にはあまり人はいないということであった。が、トイレの行き帰りにたまたま目にした教室には、そういう手伝いにはいけないご年配の方や子供を抱えた女性などの姿があった。

夜は毛布や布団をならべて眠るのだと思うが、昼はすべて片付けるのだろう。床の上で窓の方を向いて座っていた。私たちと目が合えば「こんにちは」と挨拶をうけることになるので、それが面倒だったのかもしれない。少人数ならばまだしも、連日外部から多くの人間が入り込むのだ。たとえ挨拶だけであったとしても逐一対応をしていたら疲れてしまうだろう。それはわれわれも同様で、こちらも疲労していた。・・・外部から来たわれわれが自分たちの生活圏に入ってきても、気付かないですむよう(実際には気付いておられたと思うのだが)、廊下を見ないように、窓に顔を向けてくれていた。

静かだった。子供もいるのに。そして薄暗かった。発電機は持ち込まれたが、一日の使用量が限られていたから、昼間の照明は論外だ。

窓からうす暗い空が見えた。毎日その空をいったいどんな気持ちでいていたのだろう?

 

ところで、「氷川きよし」は2016年の紅白歌合戦で、熊本城で「白雲の城」を歌った。

「白雲の城」・・・コンサートでは必ず歌われる一曲だ。

古城をバックに地面に並べられた無数のキャンドルの灯が揺れる中、袴姿の凛とした姿は、今も「NHK紅白歌合戦のアーカイブ番組」などで取り上げられる。

恒例のNHKホールを離れて どうして熊本で?

・・・その年の4月、熊本では最大震度7の大きな地震が起こり、多くの方が被災された。津波が生じなかったことは幸いだったが、建物被害は東日本大震災を上回ったと聞いている。私の友人はあれから7年経った今も定期的に彼地に足を運び、ボランティア活動をしているほどだ。

その地で、氷川は、天を見上げて「白雲の城」を歌った。・・・「がんばって」「元気を出して」という励ましもあったが、その場所に赴いたことは、「私たちは熊本を忘れていない。あなたたちと共にいる」という大きなメッセージを伝えていたように思う。   

 

    ・・・ 後編へ ・・・