原爆ドームが語らせる11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

南西から見た原爆ドーム

 原爆がさく裂した日、いくら待っても帰ってこない人が広島にはたくさんいた。池田重義さんは、産業奨励館に事務所があった関西石油合資会社(その頃は燃料配給組合に統合されていたようだ)に勤めていたが、その日とうとう家に帰ってはこなかった。妻のコキクさんは7日になって重義さんの弟、それに千田国民学校6年生だった四男の文彌さんと一緒に重義さんの行方を尋ねて歩いた。文彌さんは後に、「靴の裏が熱くなって着いたドームの中は崩れたれんがのがれきだらけ、元安川には数え切れないほどの遺体が浮いていました」 と語っている。(「中国新聞」2014.3.3)

 コキクさんたちはその日むなしく家に帰ったようだ。産業奨励館の中は瓦礫に埋もれ、しかも爆心地一帯の焼け跡はまだ瓦を剥がせば火が噴き出るほど熱が残っていた。しかし市内に救援に入った軍隊は、6日に負傷者の救護にあたると、7日からは遺体の収容を始め、崩れた塀や建物の下からも遺体を引き出している。産業奨励館のあるあたりでも8日ごろには遺体の収容が始まったようだ。

 コキクさんたちは9日に再び産業奨励館の焼け跡に入った。がれきの山を動かすと重義さんが椅子に座っているような白骨化した遺体が出てきた。わずかに残っていたズボンの切れ端に見覚えがあり、愛用のスイス製の腕時計も出てきた。(「中国新聞」2014.3.3)

 

 そこで管理しよられた兵隊さんがおられて、その方が、「明日の朝、これを皆焼きますから、一人別に焼いてほしかったら焼きに来なさい」と言われたんです。それで主人の弟がね、そこへ、明くる日焼きに行きました。そしたらまあ、相生橋のところの広場へ、もう山のように死体があったんです。(安芸教区広陵東組・安芸教区広陵東組仏教婦人会連盟『炎の記憶―安芸門徒の原爆体験―』1983)

 

 牛田早稲田に疎開した中国四国土木出張所の事務所に出勤途中で被爆した山本(旧姓 小谷)志津子さんは、背中と右手を火傷し、安古市町の自宅に帰ることができたのは7日だったが、その翌日には県土木出張所に勤めていた父親の小谷正男さんを探しに産業奨励館の焼け跡に向かっている。

 広島の焼け野原には無数の死体がころがり、元安川の川面にも死体がいくつも浮かんでいた。けれど正男さんの遺体はどうしても見つけることができなかった。県の職員が正男さんの遺骨を届けにきたのは8月15日。愛用のガリ版用ガラスペンが溶けて骨に付いていたのが決め手だった。(「中国新聞」1994.11.1)

 

 九六年十二月六日、原爆ドームの世界遺産登録を受け、市民団体がドームへの「献水」を企画した。水を求めて亡くなった死者らを弔うためだ。雪が舞う日、招かれた志津子さんたちは鉄のさくに囲まれた敷地内に入った。参加者らがドームの外壁に水をかけるなか、志津子さんだけは崩れ落ちたがれきを越え、構内の南西端を目指した。

「お父さん。志津子が来たよ」

思わず涙があふれた。五十一年前、そこには亡き父の机があったはずだった。(朝日新聞広島支局『原爆ドーム』1998)