原爆の閃光を浴びて人の体や衣服はどうなったのか。いくつかの手記から拾ってみたい。
爆心地から500mの材木町、今の平和記念資料館南側では広島市立第一高等女学校1、2年生が全滅した。その日の昼頃、山崎益太郎さんは二女の仁子(さとこ)さんを探して今の平和大橋西詰あたりにたどり着き、そこで眼を蔽うような光景に出会った。
ああ何たる悲惨。河原一面、砂洲寄りに無残にも、何十何百の少女らが、或いは傷つき、或いは眠り、実は既に事切れしか、また斃れ、あちこちに僅かに蠢動し、かすかにウメキ声が聞える。
驚くことには、どれもこれも素はだかである。シュミーズもスカートも焼け、身体はユデ蛸のように赤黒色になっている。(山崎益太郎さんの手記 広島市女原爆遺族会『流燈―廣島市女原爆追悼の記―』)
やっと見つけた仁子さんは益太郎さんの背中でこと切れた。
爆心地から1km、市役所の裏側に雑魚場町があった(現 国泰寺町)。宇品の陸軍共済病院に勤めていた宇都信さんの妻はそこに建物疎開作業に出て被爆し、夫のいる病院に運ばれた。
妻は院庭の草むらに大勢の傷者に交って横たわっていた。顔は腫れ上って眼は塞り、ほとんど裸体で全身塵煙で真黒く、呼びかけられなければそれが私の妻であるとは識別がつかない程むごたらしい姿であった。(宇都信「奇蹟に生きる妻」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書)
町内会で一緒だった人たちが次々と亡くなっていく中、宇都さんの妻は持ちこたえた。その日着ていた厚いネルのシュミーズで胴体と太ももの火傷を免れたのが助かった一因かもしれない。それでも放射線障害は免れず絶命寸前まで行ったのに助かったのはまさに奇蹟である。
爆心地から1.5km離れた鶴見町では広島女子商業学校の生徒が建物疎開作業をしていた。これぐらいの距離になると生きのびて自ら体験記を書かれる人もでてくる。その一人が松原美代子さんだ。
私は驚きました。2、3日前に、白い色は飛行機から目立つということで、一日がかりで茄子色に染めた上着と、もんぺが熱線で焼け、胸の辺りと腰の辺りの布地がぼろ布のように残っているだけでした。ただ土煙で汚れた白いシャツとパンティだけの姿になっていました。(松原美代子「私の被爆体験とヒロシマの心」ワールド・フレンドシップ・センター被爆体験記)
生徒の中には2年生の和田雅子さんのように「持つところもないほど焼けただれ」(「中国新聞」2015.4.21)た人もいたが、松原さんは下着だけは何とか残ったようだ。それでも大変な火傷だった。
両手両腕、両脚、顔と、身体の3分の1以上が大火傷を負っていたのです。それもひどい火傷で、皮膚は腫れあがり、セロファンのようにつるりとむげて、中から真っ赤な肉を見せていました。両手の指や腕の皮膚はまるでボロ布のように垂れ下がり、ところどころ、黄色になって血を含んでいました。私は恐ろしくなって家に帰りたいと思い、熱さも痛さもわすれて必死で逃げ出しました。(松原美代子 同上)