モンペ姿の親戚の女性 1945年春
前にも書いたのだが、初代蝋人形の火傷の様子と着ている服の破損の具合がどうもマッチしていない。女性の両手の指先から皮膚がたれているのは原爆の閃光による重度の火傷のせいだ。しかし袖口にゴムの入っている着物の袖はまったく無事であることに気がついた。(女性が着ているのはブラウスではなく、上の写真のような着物を縫い直した上衣とモンペだと思われる)
女性の胸元にしても、上衣の右胸部分が焼け、下着(シュミーズか襦袢)も焼け、火傷した乳房があらわになっているとすると、左胸のほうは着物に覆われて無事なのが釈然としない。母親らしき女性にしても、はだけた胸元(乳房は出ていない)は火傷しているようにも見えるが、上衣はまったく損傷していない。幼児の場合は、写真を見直してみると両足を火傷しているようにも見えるが、パンツは破れても汚れてもいないようだ。そして3人とも目鼻立ちははっきりして、火傷で腫れてはいないように見える。
新聞記事には次のように書いてある。
初代人形を置いた第4代館長の浜崎一治さん(88)=広島県呉市=は、被爆者治療をした医者を人形職人と訪ね、更に実際に被爆者が着ていたもんぺや防空ずきんを人形に着せた。浜崎さんは「職人は被爆直後の人の皮膚がどんな状態だったかに気を配り、微に入り細に入り熱意を持って再現を試みていた」と振り返る。(「毎日新聞」2017.4.20)
新聞記事には、皮膚の状態の再現に気を配ったこと、そして、被爆者が実際に着ていた服を人形に着せたことが書いてある。しかし、人形の火傷の状態にぴったり合う服を見つけるのは難しいのではなかろうか。そこまで気を配り時間をかける余裕はあったのだろうか。
平和記念資料館学芸員の佐藤規代美さんが採用されたのは1995年。その年から資料館に収蔵されている膨大な数の遺品の整理が始まった。
紙に書かれた情報と遺品を一つ一つつきあわせていく、まったくの手さぐり状態。当時資料館には二万二千点くらいの遺品がありましたが、それを一点ずつ照合して、かたづけて、運んで、写真を撮ってデータベースに加えてと、途方に暮れる日々でした。(指田和『ヒロシマのいのち』文研出版2017)
これは、1994年に「広島平和記念資料館条例」が全面改正され、それまでの資料収集や調査研究の業務に加え、平和学習や被爆体験継承事業のため資料の供用の業務も加わったからであろう。資料を提供するためには、まず何があるのか確かめねばならない。しかし当時の資料館は、「何がどこにあるのか?資料がまさに眠っていた」という状態であったという。(「中国新聞」2019.4.22)
それは、条例改正の前年まで資料館職員の人数は嘱託を含めわずか7人で当然予算も乏しいという実態からすればやむを得ない話であったろう。
そうなると、市長のトップダウンで「リアルに被爆状況を再現できるろう人形」をつくれといわれても、人形のコンセプトにしても資料収集にしても、僅かな人員では十分取り組むことが難しい状況だったのではなかろうか。「まったくの手さぐり状態」の中、苦労されてつくられた人形だったのではなかろうか。