2013年3月19日に開かれた第14回広島平和記念資料館展示検討会議で今中亘委員長(当時中国新聞社特別顧問)は、「被爆再現人形」撤去について批判の声が上がっていることを受けて、次のように述べている。
現状のジオラマ人形について市や資料館へ声が寄せられている。これまでの会議で、実物の資料を重視するという中で被爆者の坪井委員の「被爆の実相はこんなもんじゃない、ジオラマはおもちゃである」という意見が決め手となり、ジオラマ人形は撤去する方向になった…(「第14回広島平和記念資料館展示検討会議要旨」広島市ホームページ)
爆心地からわずか1.2kmの場所で被爆し、全身大火傷で何度も死の淵に立った坪井さんの言葉には重みがある。人形の撤去方針が変更されることはなかった。
そうするとネット上で見かけるようになったのが、きちんと考証し最新の技術でつくられた正しい人形を置いたらどうかという意見だ。広島で一番悲惨な原爆の写真をもとに人形を作ればよいという意見もあった。これらの意見に思うことは後で書きたい。
もう一つ、ネットでの噂を目にした。「初代の人形はやばかったらしい」というものだ。
この噂と繋がりがあるかは知らないが、鍋島唯衣さんは、二代目のプラスチック人形は凄惨さが抑えられていると捉え、資料館が来館者へ配慮した可能性を指摘されている。そして初代蝋人形こそ、修学旅行生などの子どもたちにとって「原爆の凄惨さを肌で感じることができる展示物だったのではないか」と主張される。
それでは初代蝋人形は一体どんな姿をしていたのか。私には見たという記憶が全くない(たぶん見に行くのをさぼっていた)が、鍋島さんも生まれたときには初代人形はすでに姿を消していたはずだ。結局今では3枚の写真しか手掛かりがない。
そのうちの一枚はネット上で見られる出所不明(たぶん)の写真。一枚は鍋島さんの論文が掲載されている『忘却の記憶 広島』(東琢磨他編 月曜社2018)で見ることのできる平和記念資料館提供の写真。そして最もアップで人形を見ることのできる写真が、『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』(高橋昭博他 日本放送出版協会1982)にのせられている。
鍋島さんは初代蝋人形について次のように説明している。
蝋人形の女性の髪は、焼けて逆立ち、ブラウスとモンペは半分近くが焼けてなくなり、乳房と両手の皮膚がむけて垂れ下がり、すすけてうつろな表情を浮かべている。母親らしき女性に手を引かれて歩く男児も、全身に火傷を負い、白いランニングシャツの一部と帽子をかぶった部分の髪の毛しか残っていない。(鍋島唯衣「原爆資料館の人形展示を考える」東琢磨他編『忘却の記憶 広島』月曜社2018)
そして二代目プラスチック人形についてはこう述べている。
…人形の髪は縮れ、顔は腫れているが、皮膚が焼き爛れているのは腕と手だけだ。着ている衣服もボロボロだが、女性と女学生の乳房が剥き出しになるほどではない。(鍋島唯衣 同上)
私の目に人形がどう映ったかは、前に「『原爆資料館の人形展示を考える』を読んで」で書いているが、今回改めて写真を見直して気づいたことがある。(気づくのが遅いともいえる)