「三位一体の人形」(三人の中学生の遺品)
2019年4月25日、リニューアルされた広島平和記念資料館に行ってきた。
行くまでにちょっとだけ心配だったのが、人形は続けて展示されているかどうかだった。人形といっても、本館入り口にあったプラスチック製の人形(初代はろう人形)ではない。いわゆる「三位一体の人形」だ。
1955年に平和記念資料館が開館したそのころ、広島市立中学に通っていた子どもたちの形見の品が資料館に寄贈された。津田栄一君の帽子とベルトは母親のアヤ子さんが、上田正之君のゲートルは母親のキヨさんが、そして福岡肇君の上着とズボンは母親のとみゑさんが寄贈した。
津田アヤ子さんは、当時の長岡省吾館長が「手放しにくいものを、よう入れてくれた」と男泣きに泣いてくれたのが忘れられないと語っている。(『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』)
「三位一体の人形」には、それぞれひとり息子を原爆で失った3人の母親の深い悲しみがしみこんでいる。母のもとにやっと帰ることができた子どもたちの大切な遺品を原爆資料館に寄贈させたものは、母親たちの消えることのない悲しみであり、怒りであった。(高橋昭博他 『きみはヒロシマを見たか 広島原爆資料館』日本放送出版協会1982)
母親たちは自分たちの思いを、自分たちがいなくなった後もずっと伝えてくれることを願って、大切な形見の品を資料館に託した。以来、「三位一体の人形」は広島平和記念資料館のシンボル的な存在となった。
広島平和記念資料館がリニューアルオープンする前、ニュースでは「実物重視」の言葉が躍った。しかし、この「三位一体の人形」にしても、そのほかの多くの遺品にしても、資料館でずっと展示されてきたのだ。資料館開館以来今日まで「実物」はずっと大切にされてきた。
難しいのは、こうした「物言わぬ語り部」といわれる遺品に込められた思いを、資料館を訪れた人たちにどのようにしたら十分に伝えられるかだろう。
今回のリニューアルされた資料館の展示を見て、取り組まれた方々には本当にご苦労様でしたと言いたい。
けれど、これで終りではない。展示のあり様はこれからも最善を求めていかなければならない。変っていくものもあるだろう。けれどその一方、ぶれないことも大事だ。ぶれないための基準点は、「三位一体の人形」だと私は思う。