広島で「原爆症」の症状が出なかった人、出てもすぐに回復した人にとって、「75(70)年不毛説」が否定され、草木もしだいに芽吹いてくれば、ホッとするのも当然だろう。
峠三吉の1945年の日記をめくってみれば、被爆後しばらくは自身の下痢の症状に不安を覚えた三吉だったが、9月15日の日記に、「原子爆弾の影響を心配してゐたるも老父、頼雄も先づ無事なる模様にて安堵せり」と書いておしまいとしている。(「峠三吉被爆日記」広島大学ひろしま平和コンソーシアム・広島文学資料保全の会)
三吉が「原爆症」は終わってはいないと知るのは、1951年に『原爆詩集』を世に出した後のことである。(峠三吉「子供の詩は教える」『われらの詩16号』1952)
そして1946年の夏は日本中が食糧難で呻いていた。まして広島・長崎で「原爆症」に苦しんでいる人たちにとって、原爆がどうこう、放射能がどうこうと論ずる前に、自分と家族の今日の命、明日の命をどうつないでいくかが切実な問題だったはずだ。ハーシーが『ヒロシマ』でとりあげた6人の被爆者も一人一人の状況は違うものの、誰もが生活を再建するために一生懸命だった。ハーシーも原爆や放射線の秘密を暴いていくのを途中でやめて、被爆者の生活再建の様子を描写するのに力を注いだのも当然であろう。
しかし、「75(70)年不毛説」は全く根も葉もないデマだったのだろうか。残留放射線については、まだわかってないことが多そうだが、これによって障害をうけた人は確かにいるのだ。
被爆当時19歳の栗原明子さんは8月7日から一週間家族を探して市内を歩きまわった。すると発熱、倦怠感、血便、脱毛などの急性放射線障害の症状が現われた。症状は一か月半続いた。(川野徳幸・今中哲二編「ある『広島原爆早期入市者』の記録」広島大学平和科学研究センター2013)
栗原さんの他にも症状が出た人はおり、ABCCの記録には死亡例もみられる。(川野徳幸・今中哲二 同上)
しかし、占領下という原爆投下から数年後ぐらいの時点で入市被爆者の体験記がなかなか見つからない。『中国文化原子爆弾特輯号』(1946)に掲載された大久保沢子さんの「三日間」とあともう一つぐらいである。
いろいろと、とても書ける状況ではなかったのではなかろうか。栗原明子さんが証言されている。
川野 ご自身は、そういう放射能がうつるというふうに言われたことはありますか。
栗原 言われたことはありますね。一緒にいないほうがいいとか。だから、みんな被爆のことは隠していましたね。
川野 そのように言われたのは、いつ頃ですか。
栗原 被爆から半年ぐらい経ってからですね。(川野徳幸・今中哲二 同上)
放射能が残っていないにこしたことはない。しかし、政府が隠してしまえば人々の不安は沈潜し、差別となって表に出てくる。そうなると被爆者自身も隠さざるをえない。人々の心の底のドロドロとした部分。ハーシーもさすがにそこまで立ち入ることはできなかったのではなかろうか。