ほぐしてつむぐ日々

ほぐしてつむぐ日々

編集者・シンガーソングライター・All About恋愛ガイドの藤嶋のブログ。親子の確執における自己分析・パートナーシップについても書いています

イベントの開催の検討に時間がかかっていると

「不安だったら中止にしましょう」と言われる。

 

いや、そうじゃないでしょう。

不安なわけじゃないんです。

 

どういう形でイベントを開催すべきか。

主催者としての責任を考えて

「よりよい形式で開催すべき」であり

不安を持ったまま参加してもらったところで

参加者も開放的になれないから慎重に検討しているのだ。

 

私は、経済的な不安となんども対峙してきた。

親から全否定されて命の危険を感じたこともある。

もしや、私は親に殺されるのではないかと。

だから、正直言ってコロナごときで

よよと崩れる私ではないのだ。

 

違うんだなー。

 

私「コロナで東京はまだ大変みたい。

  いまのところ、だれとも会えないって東京に住んでるTちゃん」

夫「なんだ、Tちゃんもコロナ不安派か」

私「それ、全部まとめて『不安な人』にしちゃダメよ。
  Tちゃんは勇気がないとかじゃなくて、自分が移す側にもなりたくないんだよ。

  慎重なだけだよ」

夫「なるほど、加害者になってしまうのは嫌やな。慎重なんやな」

 

そう。なんでも「不安な人」「怯える人」と

簡単にジャンル分けすることには大変疑問を感じる。

 

コロナ禍において、さまざまな人との

「視座」の違いを、全人類が体験している。

 

人の数だけ、視座がある。

 

人の視座が重複することはあり得ない。

つまり、存在する人間はすべて

「現実」の見え方が違うということだ。

 

似ている人はいても

近い人はいても

誰一人、同じであることはあり得ない。

 

おそらく「視座が違うだけ」という捉え方すら

私のオリジナルの視点なのだろう。

 

真実は人の数だけある。

 

私は、そう思う。

同じ時間、同じ月を観ているのだとしても

南半球の人と、北半球の人とでは見え方が違う。

 

それなら、わかると思う。

 

でも、私たちは同じ日本にいても

同じ女性であっても

同じ年齢であっても

同じ職業であっても

みんな見え方が全然違うのだ!

ということに気づいていない。

 

最近よく感じるのが

「人」=「普通」

「自分」=「特殊」

という捉え方をしている人の

生きづらさ。

 

そう。

「自分」と「他人(ひとまとめ)」

「特殊」と「普通」

という一元論で考える人がいるのだ。

 

いやいや、

あなたのいう「普通」と「私」

すでに全然違うんやけど。

 

と言いたくなる。

 

違うんだよ。みんな。

 

立っている場所、違うでしょう?

家族でも違うでしょう?

身長も違うでしょう?

見てきた景色違うでしょう?

かけられてきた言葉違うでしょう?

もらってきたもの違うでしょう?

吐き出した言葉も違うでしょう?

 

私たちは唯一無二の存在。

だから、違って当然だし

違うことは「いのちの重み」でもある。

 

同じテレビの画面観てても

家族で観ているところが違うよ。

 

同じCM見てても

「あの犬、かわいい💕」

「だれ、あのイケメン」

「最後のコピー、ママのセリフっぽい」

いや〜 全然違うところ見てるよね。

 

そう。みんな違うのです。

そして、「みんな違う」。

そして、

「違う」は「悪」じゃない。

 

違って当たり前。

自分と他人、世界は2つに分かれているわけじゃない。

 

ぜーんぶバラバラで

ぜーんぶひとつなのだ。

 

ぜーんぶ、違って

ぜーんぶ、いのちなのだ。

 

そこだけわかれば

こわいものがなくなるのに

でも、この視点こそが「観自在」。

 

普通はわからないものなのかもしれない。

 

コロナでそれが浮き彫りになってきた。

みんな違う。

 

だから、いまこそ言いたい。

 

みんなちがって、みんないい💕

 

 

  

「毒親」の「毒」というものは、驚くほど強力で簡単に消えないものです。50歳になってもまだいろいろと出てくる。

 

さて、私のこれまでの毒親との向き合い方から、以下のような経緯をたどっているというのが現在の分析。

 

否定(信者) :人の話を聴いても「私の親は『毒親』ってほどでもないかな」「お母さんのことすごく尊敬しているところもあるし」と否定。母に「母が正しい」と刷り込まれコントロールされてきたのもあり盲目的。半分は母を好きで母を否定したくない

          ▼

受容(吐露) :「やっぱりうちの母もおかしい」「そうか私は母の影響で『自分』を認められないのだ」と気づく。ここからしばらく“母にどんなことを言われたか”“どれほど辛かったか”にフォーカス。自分の苦しさを語るナラティブライティングが始まる。

          ▼

否定(味方) :少し客観的に「それでも母も祖母との関係が大変だったのだから」と母の立場に寄り添おうとする。尊敬する人(親とは仲がいい)から「そんなこと言ったら親がかわいそう」と言われるなどの周囲からの軋轢もあって無理に閉じ込めようとしてしまう

          ▼

受容(葛藤) :母を無理に100%好きにならなくてもいいのだとは気づくが、「このイライラ・モヤモヤはなんだろう?」と心身の不調はまだ抱えている。「愚痴・批判・嫌い」もまだ多い。「やっぱり母のせいなんだろうか?」と逆戻りしているように感じる。「統合すべき」「そうすれば自分を愛せる」という回路はわかっているができない

          ▼

統合(安定) :「きっかけは母だ」「だけど、このイライラ・モヤモヤを抱え続けているのは自己責任である」と腹で気づく。つまり、根本的には「自分が変わるしかないのだ」と気づく(思考ではなく腹に落とし込むことが重要)

 

人によって過程は異なると思うけれど、今、やっと⑤のところまで登ってきたかなと自己分析している。すべて必要な過程だったと思う。やはり人の成長は「螺旋」だ。振り子のように極を行ったり来たりしながら、前と似ているけれど少し上へと上昇していく。

 

「統合しなければ」と思っていたときには、まだできていなかった。無理に統合しなくても、「ちゃんと元気になりたい」「『自分の思う人生』を生きたい」と、心の底から願うことで、その気づきを得ることができた。

 

 

これまでの私は、心のどこかで「あぁ、できることなら、偶然事故に遭って命を落としてしまえたらなぁ」と思っているところがあった。人生に随分と疲弊していた。能動的に「生きよう」としていない。責任感から「生きなければ」と思っていた。心身を大切に思えていなかった。だから、元気になれなくて当然だ。

 

まぁ、極論「しんどい自分でいたい」「なぜなら人に心配してもらえるから」だったのだろう。ただの承認欲求だ。

 

そう気づいたと同時に「あぁ、自分の『からだ』さんに、ひどいことをしているのだな」と思えて涙が出てきた。本当に申し訳ないことをしてきたのだろうなと。

 

とはいえ、裏切り、いじめ……どんな目に遭おうと、オープンマインドというスタンスは変えずに生きてきたのだから、心身は疲弊していて当然だし、心をガードせずにいつもしっかり相手と向き合おう、自分の心と向き合おうとしてきたので、私の「心」はきっと、疲れていて当然!なのだろうと思う。

 

今後も「『心』を閉じる」ことはしないけれど、きっと、これからは「『心』を守る」ことはしていこうとも思う。そして、『からだ』については、「私はちゃんと生きるから、よろしくね」ということを伝えた。

 

自分が自分を愛する。

 

言うのは簡単。それが大切であることもわかる。でも、やはり「毒親育ち」には難しいという現実がある。

 

それでも毎日、自分の『心』と『身体』に向かって、「今日もありがとう」「私はちゃんと生きるからよろしくね」と声をかけるところから始めるだけでも、心身が大きく変わったのを感じる。いろいろなことに感謝の気持ちが湧いてくる。

 

自分を甘やかすのではなく、自分の心身にフォーカスする。自分の本音に気づいてあげる。自分を見てあげる。自分の身体の声を聴いてあげる。それがいかに大切かを、今、実感している。

 

そうなってくると、もう母の「毒」などどうでもいいと思える。ニュートラルな位置に立つと、「好き」と「嫌い」ではない「どっちでもいい」が増える。

 

「嫌い」の数だけ、きっと、自分を愛せていなかった。

「嫌い」が多いと、世間に対する文句も増える。

「嫌い」が多いと、自分に対する呪い(どうせ私なんか)も増える。

 

「どうせ私なんか」という呪いの言葉は、コントロールタイプの母親からの暴言の抜け殻。その抜け殻に気づく度に、それをそっと外しながら、自分の意思でこれからの人生をしっかり生きていこうと思う。

 

 

   

真名井神社

 

就職情報誌『とらばーゆ』の編集をしていたころ、ライターさんが企画を持ち込んでくださったことがあります。でも、残念ながら編集経験のないライターさんに共通していたのは「コンセプト」の重要性をご存じないということでした。その企画書には明確なコンセプトが書かれていることが少なかったのです。

広告出身の自称・編集者さんの元で働いたときも、そう。「どういう意図があるのか」を考える前に、先に「形」から入ってしまう。

「ここにタイトルがあって、ここに画像があって……」。それは企画ではない。ただのレイアウトです。「レイアウトする」ことは「作業」であり、「編集」ではない。

企画を立てる、ということは、そこに必ず「目的」がある。
そして、すべての「企画」には必ず「目的」に達成するための「意図」がある。

だれになにを伝えるのか。
どんな目的のために記事を作るのか。
それによって読み手、作り手、双方にどんなメリットがあるのか。

これが最も重要です。

 

コンセプトが書かれた「企画構成案」は建築でいうところの「設計図」。同じ設計図を手にするから、多くの人が関わっても、一つの素敵な家ができあがるわけです。関係者がそれぞれ、別の「脳内設計図」をしかも曖昧に描いていれば、もめることになります。

 

 


設計図である「企画構成案」を決めてからWebディレクター(紙媒体なら編集者)がライターに仕事を発注します。ディレクターはそれを「指揮」する役割です。ライターがちゃんと意図を持って取材し、記事を書いてくれているかどうかを確認するのです。

 

意図のない原稿は、ただの「報告書」です。プライベートな内容ならただの「日記」です。できごとの報告です。

 

私たちプロの編集者・ライターは、ただ「話を聞いてまとめる」だけではなく、「どんな人に、なにを聞いて、だれに伝えるか」をしっかりと見極め、それによって質問内容も見せ方も、考慮するのが仕事です。

昨年の教訓となった仕事を例に挙げます。二度とこんな仕事をしたくないと思った事例ですが、「取材させていただいた方々」については本当に素敵な方ばかりだったことも最初に明記しておきます。

昨年、とある公に近い団体の仕事を請け負いました。発注時には、「各エリアの団体の代表の方にインタビューをして、そのエリアでどんな活動が行われているのか、どんなことに力を入れているのか、各エリアの良さを紹介したい」という意図を聞きました。

・代表に話を聞く
・代表の方の顔写真を出す

つまり、インタビュー記事ですね。ということは、一人称語りになりますし、口調や雰囲気も出すほうがいいという判断をします。

発注2日後には、取材に行き、数日後、その記事を仕上げ一人称語りの原稿を、この仕事を依頼してきた担当者に読んでいただき、OKが出たので、すべての記事を同じように仕上げました。その月のうちに約40件のうちの20件が終わり、請求書を発行し振り込まれました(期末だったので先方が急いでいた。予算の都合でしょう)。

 

その2ヶ月後、担当者が変わったらしく新しい担当者(最初の発注時に同席していた)から、続きの20件の依頼が来てまたインタビューに行き、20件の原稿を仕上げてからのことです。

「一人称語り」だからか、「もっと真面目な文章に修正してほしい」と言われたのです。納品した数ヶ月も経った原稿のリライト依頼など、常識的に考えてあり得ない話でした。

公の団体の報告書とインタビュー記事は、まったく異なるものです。

報告書は、ただ淡々と綴るものでいい。インタビューは、その人の雰囲気が出ていてもいいものです。ライターがわざわざ聞き取りをして執筆をして顔写真を掲載するのであれば、本来、一人称での語り口調でよいはずですが、慣れないとそれが稚拙に感じられるのかもしれません。

しかも、「原稿確認」をおこなう際、生原稿でチェックしてもらったのもよくなかったと思います。原稿チェックは必ず「仕上がりがわかる状態で全体を見てもらう」のが鉄則だと、編集者としては考えます。私がWebディレクターであれば、そうします。生原稿だけを見せるということは「一部」だけを見てもらっているということ。

 

例えば、活動報告なのだから「報告書的」に仕上げたいということなら、年表のようなものも作成し、「インタビュー記事」と「活動報告年表」と、どちらも出せば「Webページ全体」ですべて伝わりますし、内容が締まります。そういう見せ方もできる。Webディレクターがそういった構成案をしっかりと考えるべきです。

でも、団体のホームページ担当者とWebディレクターがしっかり意図を持っていないので、「800字の原稿」と「人の顔写真」が入る……というただのレイアウトのイメージだけで発注をする、担当者がそれにOKを出す、そこから私が依頼を受けて動く。

 

私のほうでできる範囲で「800字は短いので、活動すべてを書いていては内容が薄くなってしまう」「ゆえに特にがんばった3つをメインに書きましょう」という打ち合わせはできていた。


それでも、結果、あぁでもないこうでもないと、クレームが入り、最初の発注時とは全然話が違ってくる。そのうえに「料金が高い」と言い出される始末。

私たち自営業は、「時間」が命。その仕事では、毎回片道200km前後を車で走らせて移動して一人で3〜4人にインタビューするという仕事だったので、確実に1日潰れてしまいます。その場合、過去、この業界では拘束料というものが支払われていました。ほかの仕事が一切入れられない状態になるからです。

こういった仕事の人間にとっては「時間」という「商品棚」に、いかに「商品(各案件)」をうまく切り分けて、効率よく仕事できるかで、収入が大きく変わってきます。

この仕事を請け負ったおかげで、私は、ほかの仕事が引き受けられない。ほかの仕事を犠牲にして引き受けている状況で、1件20,000円(撮影込)。片道2〜3時間かけて訪ねていき、インタビューに慣れていない方から、一人60分ずつ話を聞き出し、また2〜3時間かけて家に戻る。その日はまったく仕事できないほど疲れます。私にしたらキャリアを考慮すると低めに設定したつもりでした。勉強にもなると考えたからです。

しかも、発注した担当者がOKを出した原稿を、数ヶ月経ってから、原稿チェックに回したところ朱書きがたくさん入って戻ってきたからと、私に対して団体職員3人で取り囲んでクレーム。そのうえ「本人が書いた普通の報告書」のような文章に修正されていく理不尽さ。

それなら、最初から本人が書いたほうがよい。
ライターに発注すべきではない。
顔写真だって、職員同士で撮影すればいいのです。

「インタビュー」を依頼するということは、そこに意図があって然るべき。ただ真面目に箇条書きに近いような報告書的な記事にするのであれば、最初からライターに発注しなければいいのです。写真にまでクレームをつけ始めましたが、それならカメラマンを雇えばよい。取材・執筆・撮影で1件20,000円。この料金では、プロのカメラマンには発注できない。しかもスケジュールが先に決まっている状況で、発注時3月に、今月末までに20本の原稿を仕上げてくれ……というのなら「特急料金」を上乗せされてもおかしくない。

さまざまな環境でがんばる方たちにたくさん話を聞けたことは、私にとっても勉強になり励みになり楽しいことでしたが、後味の悪い終わり方をしました。仮に、彼らが時給1,000円でバイトを雇って、この記事を作成していれば、もっと予算は安く抑えられたはずです。あまりの理不尽さに、本当に悲しくて悔しくてたまりませんでした。

しっかりコンセプトを立てられないウェブ担当者が作成し、そのために私への発注が曖昧になり、了承した担当者からの引き継ぎが曖昧なために、さらに仕事が曖昧になる。数ヶ月もしてから書き直しが来たのは人生初でした。

結局、リライトには追加料金がかかることを伝えて、リライトしないことになりましたが、本当に「ただの作業」の依頼を受けてしまった反省事例です。

ライターがやる意味が、そこにはなかった。

新担当者たちが、
「もっと季節の挨拶から入るとか……」
「この料金なら、もっとこの土地の良さについて話すとか……」
などと口々に話していましたが、それなら800字では納まりませんし、時間も労力も必要です。なにより最初からそれを含めて発注すべきです。

そして、全体の構成を考えるのは「Webディレクター」の仕事ですので、ライターの業務ではありません。最初のWeb担当者とWebディレクターがしっかりとコンセプトを立てていないから、発注してから「もっとこうすればよかった」が出てくるのです。

こういったことは多々あります。

 

最後は言った言わないの水掛け論になってしまい、当初の金額はいただけたものの、あの仕事のために犠牲にした「時間」と「労力」はムダになってしまった印象が否めません。彼らのひとりが「うちなんて、こんなもんです」などと開き直ったときには呆れました。

「数をこなす仕事」は請け負わない。
たとえそれが、ちゃんとした団体であっても。

個人事業主は舐められます。現に、この仕事は、大手の見積もりが高かったから私のところに回ってきた仕事でした。個人だから動けた。でも、文句を言われて終わり。価値を理解されないうえに、ダメ出しされるという理不尽さ。

 

謝罪してくださった方もいらっしゃいましたが、そもそも男3人で、私一人を取り囲む時点で、私は「人としてどうなの?」と思いました。もう気持ちのうえでは受け入れましたし、お金も予定通りに支払われましたし「時効」だろうと思うので書きましたが、決して「やってよかった」とは思えません。

なんでも仕事を引き受けるのが大切な時期もあるでしょう。私のように、娘の学費のことを考えて、「まとまったお金が入る仕事」を選んでしまうこともあるでしょう。

 

だけど、それで「年収」が変わったのかというと、実は、結局、さほど変わりませんでした。疲弊した分、拘束される時間が長い分、執筆を別の日にしなければならないから、結局は効率の悪い仕事だったのです。ゆえに結果的には少ししか年収はアップしていません。

 

どんな仕事を引き受けても、そのとき引き受けた仕事が、そのときの正解だと思います。でも、どんな仕事を受けるにしても、コンセプトをしっかりと擦り合わせることは、重要です。

 

だれに、なにを伝え、情報の発信者、受信者が、どういうメリットがあるのか。文体を含めてすべて確認しましょう。

 

私がこのできごとから学んだのは、「今後の自分の編集(ライター)の仕事についてよく選択せよ」ということです。その後、月間広報誌の編集からも退きました。そして、現在、本当に素晴らしい単行本の「書籍」を編集しています。


※画像は真名井神社。仕事ついでに立ち寄ったときのもの

 

 

   

「恥をかきたくない」

「失敗したくない」

「自分の非を認めたくない」

   

そのどれもが「成長」を止める行為だし、生きていてつまらなくなっていく「好奇心のブレーキ」だと思う。

オトナになればなるほど恥はかけないだろうし、失敗するのは辛い。そこでいかに恥をかいてでも、あらたな自分に出会いたいかどうか。

   

「そつなくこなす」ことを目的とした瞬間に、むしろ「かっこ悪さ」が滲み出る。「責任あるオトナ」ではいられるかもしれないけど、それが楽しいと感じられるかどうか。「人に尊敬される」ことが生きる第一目的なら、それもアリかもしれない。好みの違いだ。でも、私はいっぱい恥をかいて何度でも自分を一皮剥いて生きていきたい。恥をかくことこそ、本当の自分磨きではないだろうか。

 

と、宮古島でライブしてみて思ったのでした。詳細は以下のブログにて。

   

・想いはめぐる

https://terracima.com/2019/05/20/miyakolive190514/

 

「浮気」ってなんなんだろうな。

と、ふと思った。

 

浮気って、ふわふわした心?

「浮気はダメ」だってだれが決めたんだろう。

 

一夫一婦制だから貞操を守るっていうのは

「法律」のためにややこしいから

……っていうのであって

心は自由であっていいと、個人的には思う。

 

自由であっても、自分のほうを向いていてくれたら

それが一番うれしいこと。

 

でも、「しちゃダメ」って束縛し合うのだとしたら

もう最初っから法律上の婚姻関係とか

結ばなくていいや!

って、私は思う。

 

他の人を好きになる可能性なんて

0%だとは言い切れない。

それを目くじら立てて見張り合うなんて

想像しただけでしんどくなる。

 

男も女も、浮気する人はするし

しない人はしないし

する人がしなくなることもあるし

しない人がすることもあると思う。

 

それは「心」って見えない存在を

無理して閉じ込め合ってでも

守ることなのか?……というと

私にはよくわからない。

 

と書くと

「あなたは浮気されても平気なの?」

と思われてしまうのかもしれないけど

それは違う。平気じゃない。

 

彼がほかの人を好きになったのなら

彼がその人といっしょになってほしい。

彼が幸せなほうがいい。

 

私といたいなら

いっしょにいたらいい。

 

どう関係するかより

どう在るか。

 

もちろん自分以外の女性に

心移りしてしまったら悲しい。

でも、それは女としての想いで

人間としては

彼の好きな人が彼を好きなら

それもアリだと思う。

 

ただ肉体関係を結びたいだけ

というのなら

やっぱり気持ちが悪い。

 

彼が他の人と一度でもした以上は

私は、その後、

もう彼とは、いたしたくない。

 

それに、もしも夫の近くに

私から見て

「夫が好きそうな女性」が

現れたら、やきもきすると思う。

 

ゆえに、

仮になにかコトが起こったら
私は、ただ別れる。
 
束縛し合うためにそばにいたいとは思わない。
なによりも自分が束縛されたくないから。
「浮気」して自由になりたいという願望が
相手にあるのなら
私は「そもそもの自由」を選ぶ。
 
「いっしょにルールを守りましょう」
っていうのがしんどい。
 
それなら
「お互いに自由で在ろう」
って思う。
 
それぐらい「ふわふわした関係」で
それでいてつながっていられたら
別にそれでいい。
 
それぐらい「私は私でありたい」。
二人の間に子どもがいないから
そう思うのかもしれないけれど。
 
私たちはもしかしたら
浮気以上に「ふわふわ」した関係で
つながっているのかもしれない。
 
それでいて強固で信頼しあえている。
そうなるために
しっかり心をお互いに
さらけ出しているし
隠しごとをなくしても
簡単に裏切りたいと思わなくていいほど
たぶん「自分」をしっかり捉えている。
 
自分をしっかり見据えて
相手をしっかり見据えて
それでもなお浮気したいぐらい
魅力的な人が現れたら
それはもう、互いに「離れる時期」ってこと。
 
だから、私には
「浮気」っていう概念は
正直どうでもいいのかもしれない。
 
 
   
だって自由でいたいもん💕
 
 
   

その言葉を発する意味はなんだ。

その言葉を発信する必要性はあるのか。

考えて伝えていこう。

 

批判や指摘をする必要はあるのか。

発信者の自己満足ではないのか。

そこに「愛」はあるのか。

 

胸に聞いて発信していこう。

 

「小さいころの自分自身に伝えたいと思える内容か」

そんなフィルターにかけてから

言葉を届けていこう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

就活セクハラ。同世代の娘を持つ母として、非常に腹立たしい! 回し蹴りしてやりたい(できないが)。その一方で、「あ、そういえば似た経験がある」と思い出すこともしばしば。

実は、私はかなり痴漢に遭いやすい人で、高校時代から、日常的に被害に遭っていた。一番最近では6年前ぐらいかな。本当に痴漢被害が多いために、おそらく麻痺している。ストーカー被害も何度かあるし、高校時代には車でつけまわされたこともある。一つひとつの被害について、恐怖を感じる暇もないほど、日常的に被害に遭ってきた。社会人になると今度は仕事で知り合った男性にさまざまな危険な目に遭わされかけた。ギリギリのところで抜け出せたり助かったりしたのは合氣道をしていたからだと思う。最後に腹が座っているからだ。通勤時の常連の痴漢に対しては爪を伸ばしておいてあるとき手の甲を思い切り引っ掻いた。社章で某大手広告代理店の人間とわかっていたが、「いつもお世話になっております」と冗談を言うパワーは当時なかった。今なら言うのに。 ・

やたらと被害に遭ったのは、ひとえに「隙」があったのだろう。恋愛においては善しとされる隙だけど、かなり大変なのだと理解したほうがよいし、性被害について、もっとしっかり予防したほうがよいと、母目線としては本当に心から思う。 ・ ダメなもんはダメ。就活だろうが、婚活だろうが、恋活だろうが、夜遅くまで時間気にせず二軒目誘ってくるとか、その時点でNG。そんなことで得られる恋人や就職先なら蹴り飛ばしてでも帰ってきなさい!

かわいいかわいい娘たち世代を大切にできない人間がいるような会社に勤めなくでよろしい。そして、20代女子に言いたい。自分が想像している以上に、何歳になっても自分が若い子の対象だと思い込んでいる中高年男性が多いということ。自分の親と同じぐらいの男性だから性的な目で見られることはない、なんて甘いのだよ! しっかり線引きして、しっかり見る目を養おうね。おかんになると強くなったな、私。

#娘の母 #就活セクハラ #就活セクハラに立腹 #娘を持つ母

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