アメフト部のホームページに、アメフト部の日々の活動を報告する「上ヶ原通信」というものがあります。そこで、これまでの本部生活を振り返って、本部長の引退報告をしてくださいと頼まれたので、文章を書いた。ここにも、少しだけ手直しを入れて、再録します。これが、最後の更新です。




私が本部長を一年間務めたことでわかったことは、「何もわからない」ということでした。




11月3日の覇行交歓をもって、私の体育会学生本部長の任期が終わりました。本部長に就任した当初、私が感じていたのは、関学の(体育会の)歴史や経緯を知ることなしには、本部長は務まらないだろうなあ、という漠然とした確信でした。そこで、就任前から少しずつ関学の創立の成り立ちや、学生会が現在の状態となるまでの経緯などを読み、聞き、知ろうとしました。そして現状の体育会の問題を認識しようとし、私(たち)なりに一年間取り組んできました。そうする中で、この一年間で、普通ではできない経験もいろいろさせていただいたし、多くの知識も得ました。

そして、任期を終え、今思うのは「何もわからなかったな」ということなのです。




知識において大切なのは、その知識自体(もしくはその量)ではなく、それを俯瞰的に見たとき、それがどういった意味を持つのかという、コンテクストの中におけるその情報(知識)の意味を把握しているかだと思います。




それは例えるなら、大きな図書館があり、そして大量の本(知識)が目の前にあるとき、それをどのジャンルの書架に収めることが正しいのかを判断できる知識が必要ということです。




関学体育会はもうすぐ、100周年を迎えます。過去から連綿と続く体育会は、もちろん栄光のときばかりではなく、むしろ様々な問題を抱えながら、克服し、また新たな問題に出会い、という繰り返しだったと思います。そしてそれらは必ずしもベストな道にまっすぐに今に至ったのではないと思います。

そして私は4年間をこの学校で過ごしました。結局、本部長を務める内に学んだこと、経験したこと、そして今起きている(過去から続く)問題を、その歴史から続くどのようなコンテクストの内にそのことを位置付けることが良いのか判断するということができませんでした。




100年のうちの4年間、本部長としてはたったの1年間ですから、そんなものと言えばそんなものなんですが、それでも私が理想としていた体育会学生本部としての働きはできずに終わってしまいました。




社会人類学者のレヴィ=ストロースは、自分が何かを達成したときに、それを「獲得」であると感じず、「贈与」であると感じることができる能力を「人間性」と名付けました。また、人間の価値は何を成し遂げたかではなく、何を贈ったかによって考量される、とも言いました。これで本部長の任期は終えましたが、これからの未来の関学体育会に何かを贈るという大切な仕事がまだ残っています。それらを完遂するまでは、今日の日は一段落ではなく、一区切りという思いです。



最後に、今まで支えてくれた体育会学生本部の仲間、関学教職員の方々、OBOGの方々、関西学院に関わる全ての人に、感謝します。




おまけ

体育会学生本部のみんなへ

覇業の後、素敵なサプライズで送り出してくれた後輩たち、ありがとう。心おきなく、引退できます。本部は、ただただ体育会行事を取り仕切る組織ではないということを肝に銘じて、より良い体育会を創っていって下さい。


俺たちの「今」している活動は、それはただ「今」起きていることに過ぎないが、何十年も後から振り返れば、それが「歴史」となっている。と素敵な添乗員さんが仰っていました。本当にそのとおりだと思います。

頑張って下さい。


野島






















終わりに②

覇業交歓は、体育会の偉業や戦績を部を超え、称え合う行事です。今年も多くの部が関西制覇や全国制覇など素晴らしい戦績を残しました。また、那須杯などの各賞の受賞者も決まり(113日の覇業交歓での発表を楽しみにしていてください)式の準備も着々と進んでいます。


今回は覇業にちなんで、「成功者のマインドセット」について


「成功者のマインドセット」としましたけど、これは、素晴らしい戦績を残せた人はこのようなマインドセットを持っている、であるとか、こんなことを考えて過ごしていた、といったようなことをつらつら書いていくわけではありません。

これは、その当の素晴らしい戦績を残された方へのメッセージです。


社会人類学者のレヴィ=ストロースは、自分が何かを達成したときに、それを「獲得」であると感じず、「贈与」であると感じることができる能力を「人間性」と名付けました。また、人間の価値は何を成し遂げたかではなく、何を贈ったかによって考量される、とも言いました。


私はこれを単なる倫理観の言葉だとは解釈していません。また、それが事実であるからとも思っていません。これは、チームが、組織が、今後さらなる発展を遂げるために必要なテクニカルな提言であると思っています。


達成したものを自分の獲得物であると捉える人は、その成功はすべてその人の能力、才能、努力の賜物ですから、他者に感謝するということはありません。感謝しないということは、そこに何かしらの恩義を感じることがないということですので、何かお返ししなければという気持ち(返礼義務)を感じないということです。


すべての部が現役の私たちのみの手で運営されている部は一つとしてないと思います。本当に多くの同窓の方に支えてもらっていると思います。それは、ここを卒業されたOBOGの方々が、多かれ少なかれ、この学院に、このチームに成長させてもらった、自己実現を果たさせてもらったという恩に対する返礼義務を感じたから、今なお多くの支援をしてくれているのです。


このように達成したことを、他者(チームの仲間、コーチ、監督、部長、学院etc)からの「贈与」であると勘違いすること(あえて勘違いと表現させていただきます)で、「贈与」と「返礼」のシステムが起動します。達成したものを贈与物であると捉えた人は、それを他者にパス(返礼)することを義務づけられます。そして、そのパスをもらった人はまた他者へとパス(返礼)を出すのです。関学体育会の歴史は、その贈与と返礼の繰り返しによって発展してきたのです。


そして、私たちが経験的に知っているのは、普通パスというのは、「より多くの人にパスを出す人」に集まるということです。サッカーをするとき、ボールを持って放さない人にはだんだんと誰もパスをしなくなります。それよりも、誰も想像のつかないところにボールをパスする人、いろいろな選手を活かしてパスを出すファンタジスタにボールは集まるということです。

 113日の覇行交歓をもって、僕の本部長の任期も終わり、後輩にバトンタッチします。つまり、僕が本部長として活動できるのは残り約2週間といったところです。そこで、これから題名を「終わりに」として、何回かに分けて、ブログをアップしていこうと思います。


「師事すること」


 僕が常日頃から感じているのは、物事について何か考えるとき、何をどんなふうに考えても、「僕は僕が生きてきた23年間の経験でしか物事を考えることができないじゃないか」ということ。つまり、思考の限界です。でもそれを超えなければ絶対に真理にたどり着けないという確信だけはある。だからまず始めは借りてくるしかない。思想を、思考法を、知恵を、工夫を、誰かから借りてくるしかない。そうしないと、「自分」から跳躍できない。関学生(体育会員)として4年間、本部員として3年間、本部長として1年間を過ごしたくらいでは、「関学体育会」について何もわからないんです。

 

 少し話は変わりますが、「個性を大切にする」とか、「自分探し」とかそういう言葉って普通に使われますけど、なんだか「自分探し」っていう言葉から連想するのって、「本当の自分」というのが、どこか心の中に、まるまるつるつるした「卵」みたいな状態で隠れていて、正しい呪文を唱えるとそれがパコッと開いて、中から様々な「潜在可能性」が一斉に開花するような、そういうイメージです。でもこれっておかしいですよね。ないですよ、「本当の自分」なんて(ない、というより、これは「本当の自分」というフィクションを採用することにより、いろいろな物事に説明がついて便利だから使用されてきたのです)。「個性」というのも同じだと思っています。同様に、「オリジナリティ」とか「自己表現」なんて言葉も好んで使います。


 でも、、、そのフィクションを本当に信じていたら、「自分」から跳躍することはできないんじゃないかと思います。そんなものいつまで信じて待っていたって、探したって、才能あふれる自分に出会うことはありません。僕は「自分からの跳躍」のためには誰かに師事することが必要だと思います。今、誰かを師と仰ぎ弟子となることは、芸事の世界でしかあまり聞かないと思いますけど、今ここで言う誰かに師事することとは、必ずしも実在の人物と師弟関係を結ぶということでなくてもかまいません。


台湾で初めて民選で総統となり、台湾の民主化に大きく貢献した李登輝という人の著書で、「最高指導者の条件」という本の中にも、リーダーとして大切なことの一つに「信仰を持つ」こと、と書いてあります。李登輝は、キリスト教信者であり、何か判断をしなければならないとき、聖書を開き、そこに答えを求めたそうです。


この文章もそうですけど、今までブログに、僕はずいぶんと偉そうなことを書いてきました。でも「偉そうなこと」を書くには、誰かからいろんなものを借りてきて、「自分」では考えつきもしなかったことを語らなければなりません。そうして、あえて跳躍してみることによって、初めて現在の私より少しだけ高い位置に連れて行ってくれるのではないかと思います。


ですから、それは先輩でもいいし、ある本の著者でもいいし、キリストでもいい。自分が「この人は」と思う人を人生の師とし、思想や思考法をまず借りてくることは、大切だと思います。

 


831日、関学カヌー部が男女ともに全国制覇を成し遂げた。53年の歴史の中で史上初の快挙ということである。

 





 

 私が今でも覚えていることが一つあります。4月、体育会もサークルもすべての課外活動団体が、その活動を紹介するビラを作り、新入生に配り、勧誘を行っていた時期のことです。それはもうめちゃくちゃいっぱいの人達が新入生に対してビラ配りをしているので、学内のそこらじゅうにゴミと化したビラが散乱するわけです。もちろんカヌー部も新入生獲得のために勧誘をしているんですけど、みんなが勧誘活動を終え、すたこらと帰って行く中、カヌー部は一番最後までビラ配りをした後、その散乱したビラを拾いながら(もちろん自分の部だけではなくすべてのビラをです)帰っていきました。



 

 これを見て、すごく単純に、「カヌー部には勝って、日本一になって欲しいなー」と思ったことを覚えています。



 

 別に、ここであえて私は、こういう取り組みをしてきたから日本一になれたのだと言うつもりはありません。




 

 オリックスの元監督仰木さんは監督就任の挨拶で

「ゲームってのは、勝ったり負けたり、負けたり勝ったり、勝ったり、勝ったり、負けたり、負けたりでいいんだよ」と仰ったそうです。



 

 この発言の真意は、選手たちを勝ち負けという桎梏から解放し、居つかず、こだわらず、白球に向かうという身体性に立ち戻らせようということにあるように思える、と平川克美さん(早稲田大学卒、(株)リナックスカフェ社長)は分析しておられました。



 

 

 その散乱したビラを拾って帰るカヌー部の姿は、「そうすべき」だからしたというよりは、ごく自然な振る舞いとして行われていました。それは、「勝ちさえすればよい」という振る舞いからもっとも遠い振る舞い方であると思います(勝つためには優秀な人材が集まりさえすればいいんですからそんなことする必要はありません)。おそらく彼らは(部の伝統として?)、公共性やその生活に根差した身体性を持っていたのだと思うし、「この学校を背負っているのは私たちである」という、ある意味妄想とも言える有責感があったんだと思います。だからそういう振る舞いができたんだと思います。





 


 私は、カヌー部のその取り組みが、「日本一」という結果として「実を結んだ」ということが嬉しかったんである。



 

 これから、多くの部がこの取り組みと快挙に続いて、良い結果が残せることを祈ります。

















少し昔の話になるけれど、松本復興相が知事に対する暴言で大臣を辞任するということがありました。これについて、内田樹先生はブログで以下のように記しています。





松本大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご本人も言

い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。

Youtube で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを

怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」

について述べた。

仮に日本語を解さない人々がテロップに訳文だけ出た画面を見たら、「どうして、こ

の発言で、大臣が辞任しなければならないのか、よくわからない」という印象を抱い

たであろう。

傲慢さが尋常でなかったから、その点には気づいたかもしれないが、「態度が大き

い」ということは別に政治家が公務を辞職しなければならないような重大な事由では

ない(それが理由になるなら、石原慎太郎はとうに辞任していなければならない)。

だから、問題は発言のコンテンツにはないのである。

発言のマナーにある。

自分の言葉を差し出すときに、相手にそれをほんとうに聞き届けて欲しいと思った

ら、私たちはそれにふさわしい言葉を選ぶ。

話が複雑で、込み入ったものであり、相手がそれを理解するのに集中力が必要であ

る場合に、私たちはふつうどうやって、相手の知性のパフォーマンを高めるかを配慮

する。

たいていは低い声で、ゆっくりと、笑顔をまじえ相手をリラックスさせ、相手のペー

スに合わせて、相手が話にちゃんとついてきているかどうかを慎重に点検しながら

しだいに話を複雑な方向にじりじりと進めてゆく。


怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという

人間は存在しない。

だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを

向上させることを願っていない。

彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。

どうして、「そんなこと」をするのか。

被災地における復興対策を支援するというのが復興大臣の急務であるとき、被災

地の首長の社会的能力を低下させることによって彼はいったい何を得ようとしたの

であろうか。



人間が目の前の相手の社会的能力を低下させることによって獲得できるものは一つしかない。



それは「相対的な優位」である。

松本復興相がこの会見のときに、最優先的に行ったのは、「大臣と知事のどちらがボスか」ということを思い知らせることであった。




(内田樹 ブログ「内田樹の研究室」 暴言と知性について)

http://blog.tatsuru.com/2011/07/05_1924.php







私たちはこれに似たことを日々、やってしまいがちではないでしょうか。




相手との関係で「相対的優位」を得ることを目指してしまうことって、無意識の内にやってしまいがちです。もちろんこれも限られた状況の中では物事をスムーズに(自分に有利に)進めることが可能となることもあるでしょう。




しかし、チームをより良くするためには、私たちの伝えたい想いが相手に届くということが最低条件です。相手に届かないのなら、そのコンテンツがどれほどに優れていようがそれはただの独り言と変わらず、何も良いものを生み出しません(それどころかその差し出され方が著しく悪い場合は辞任しなければなりません)。




私たちがまず配慮しなければならないのは、何を伝えるかではなく、その言葉が相手に届くことによってどのような「良い事」が生み出されるかということです。



そのことを配慮していない意見に、掬すべきことなど何一つとしてないでしょう。

























読書の勧め



以前フレッシュマンキャンプの挨拶文に、




 何か腹の立つことがあったとき、あなたは何と言いますか?・・・おそらく「むかつくねんあいつ」とか「きもいねんあいつ」じゃないでしょうか。きっとそうだと思います。なぜなら私たちは腹が立ったときに使える言葉をそれしか知らない。一概に「腹が立つ」と言っても、人によってその度合いは違うだろうし、同じ人であっても腹の立ち具合ってその都度違うのに、「むかつく」の一言に還元されてしまう。それってコミュニケーションをとる際に、すっごくまずいと思うんです。


というようなことを書きました(このブログにも載せました)。




私たちは、自分が操る言葉で世界を文節し、理解し、世界を見ています。つまり、言葉を知らなければ、その人にとって、その言葉が表す事象は存在しないのと同じです。

「机(つくえ)」という言葉がある。知っている人からすれば、瞬時にそれは食事をする台であることとイコールになる。ところが知らない人からすれば、そこにはなんの有用性も持たないただの脚に支えられた木の板があるだけです。つまりその人が知らない言葉は、その人の世界にとって、それが存在していないのと同じなんである。




井上ひさしさんは、著書「日本語教室」のなかで、以下のように書いています。


 


 リフォームにはたくさんの意味があります。再生とか、改良とか、仕立て直しとか、改築、増築、改装。僕は英語はよく知りませんけど、外国の、たとえば英語を使う人たちにリフォームと言ってもわからないでしょう。これは、日本独特の使い方ですから。つまり日本語では、再生とか、改良とか、仕立て直しとか、改築、増築、改装と、たくさん言葉があって、それぞれ微妙に違います。その違いを全部無視してリフォームにしてしまう。一見便利なようですが、今まで言い分けてきた日本人の脳の働き、正確さというのを、リフォームの一言で、非常に単純にしてしまうのです。こういうことが積み重なっていくと、悲劇的なことが起こるのではないでしょうか。

(井上ひさし 「日本語教室」 新潮新書 29頁)


 


 井上ひさしさんはここで、外来語が物事を単純にすることが悲劇を産むと書いていますが、その悲劇とは、単純化することで便利になる分、世界の見え方が貧しくなるということだと思います。



読書が良いと言われるのは、そこに、今まで考えもしなかった知見やアイデアが書いてあるからではありません(もちろんそういう形で有用となることもあるけれど)。そういうことではなくて、「今まで知らなかった言葉に出会うこと」それ自体が、私たちの既存のスキームをぶち破り、新たに世界を文節する言葉を手に入れることで、今まで見ていた世界とはまるで違う世界が見えることこそが大切なんです(机という言葉を知ったとたんに、ただの木の板は、生活の必需品となります)。でも同年代の人たちと話してても、知らない言葉になんてあんまり出会わないでしょ?


 言葉を知り、世界の文節の仕方が細かくなればなるほど、見える世界はより豊かになります。世界の見え方が変われば、生き方が変わる(机の上で食事をとるようになります)。生き方が変われば、体育会としての生活も変わるかもしれません。
















こんにちは。

私は関学体育会においてびっくりしたことトップ3に、上下関係が希薄だ、ということがランクインしてくることは間違いありません(もしかしたら部によって違うかもしれないけど)。それにはもちろんメリット・デメリットがあると思います。

このメリットは、チームの風通しが良いためコミュニケーションが取りやすいことでしょう。上下関係に臆することなく「なんでも本音で言い合える」といったところでしょうか?(まずこれがメリットであるかどうかからして検証の余地があると思うのですが、とりあえず置いておきます)

ただ、このことは、現状でいうとあまり良い方向に機能していないんじゃないかと思います。


このことについて話す前段として、師弟関係とはどんなものか?について、少し長いのですが、内田樹先生と鈴木晶先生(法政大学国際文化学部教授)共著の「大人は愉しい」より抜粋したいと思います。


テレビでTOKIOのメンバーが出ている「ガチンコ」という番組があって、その中の「ガチンコファイトクラブ」というシリーズが大人気です。これは日本中からケンカ自慢のボンクラを集めてきて、短期間でプロボクサーに鍛え上げる、という企画なのですが、「よくもまあ、これだけガラの悪い兄ちゃんたちを・・・」と絶句するほどに「人にものを習う態度がまるでできていない」少年たちが集められます。それを元ミドル級世界チャンプの竹原さんという死ぬほど怖いお兄さんがボコボコにしながらコーチしてゆくわけです。これを見て感心したのは、まず「レスペクト」と「ディセンシー」をたたき込む、ということです。指導者に対する敬意と礼儀を欠いたものは、コミュニケーションができないから、どれほど切実にそれを求めていても、決して必要な技術を習得するに至らないということをプロは知っているのです。


それで思い出しましたけれど、謡曲の「鞍馬天狗」や「張良」に出てくる漢の張良の故事というのをご存じでしょうか?漢の高祖の臣下に張良という人がいて、建国の英雄の一人なのですが、この人が若い時に黄石公という武芸の達人から奥義を授けられます。そのきっかけがなかなか面白いのです。


張良はある日、師である黄石公に出会います。すると馬上にいる黄石公が沓(くつ)を落とします。そして張良に「拾って履かせよ」と命じます。張良はちょっとムカッとするのですが、がまんして沓を拾って馬上の師に履かせます。またある日、もう一度同じ状況で二人は出会います。今度は黄石公は両足の沓を落とします。そして「拾って履かせよ」と命じるのです。張良はますますムカッとするのですが、ここが正念場と沓を拾って履かせ、その瞬間に「兵法の奥義を相伝」するのです。


これだけの話です。この逸話が教えているのは、実は武道においてもその他の芸道においてもとても大事なことなのですが、「入門」の瞬間に「奥義」の伝授はなされている、ということなのです。「入門」の仕方を間違ったものは、何十年師匠について稽古しても決して奥義に至ることはできません。ここで「入門」というのは、師という他者とのコミュニケーションにおける最初の一歩の踏みだし、ということです。そのときに「レスペクト」と「ディセンシー」を選んだものは、奥義へ向かう道をまっすぐに進み始めています。もう過つことはありません。彼は「学ぶとはどういうことか」を学んだからです。


「入門」に失敗する人間とは、師という他者とのコミュニケーションに失敗したものです。張良が「そんな沓、自分で拾って下さいよ、先生。おれは兵法を習っているんであって、あんたの沓を拾うためにいるんじゃないんだから」と「正論」を口にした場合、彼はそのまま門弟の一角に坐して便々と歳月を送ることはできます。けれど、奥義に至ることはできません。なぜなら「学ぶとはどういうことか」を学び損ねてしまったからです。

張良の故事で興味深いのは、「張良は沓を拾えと言われて「むかっ」としたが、がまんして沓を拾った」と書いてあることです。彼は心からの敬意をもって師に接したわけではないのです。まず「敬意を示す型」から入ったのです。「まず型から入る」というのは、学習の基本です。ですから「入門」とは(とりあえず自分の内面なんかどうでもいいから)「敬意と礼儀正しさを示す型を正しく践む」ということです。


ほんとうの心からの敬意がないのに、かたちだけの敬意を示すなんて「偽善」だよ、というような「正論」を吐く人間がたくさんいます。先生にも親にも「心からの敬意が持てないんだから、それを態度で示すのは当たり前だろ?それが他者への誠実さってもんじゃないの?みたいな(成人式でヤジをとばすお行儀の悪い成年や、それを「その気持ちも分かる」と訳知り顔に解説する評論家とか)。


まるで違います。


まず型から入る。これは精神論ではなくて、純粋に技術的な議論です。心からの敬意なんて持たなくていいし、自発的な礼儀正しさなんて誰も求めていないのです。「自分の内面」というようなものを「無視する」ところから、あたかもそのようなものは存在しないかのようにして始まるコミュニケーションによってのみ、人は「自分の外部」にあるものを体系的に「学習」できる、と張良の故事は教えているのです。

(内田樹・鈴木晶 「大人は愉しい」 2007年 筑摩書房 145146147148頁)


ふぅ・・疲れた。長々と引用しましたが、現状私たちに足りていないのは、この心的態度ではないでしょうか?(内田先生的に言えば、このような学ぶ技術を持っていないということでしょうか)


今、あまりに「自分の気持ちを大切にする」とか、「本音を言い合う」とかそういったことが良いこととされています。でもそれってほんと最近アメリカから輸入してきた思想であって、昔からそれが良しとされてきたわけではないと思います。なんだかこう思ったことをしっかり意思表示するとか(大事ですけど)、本音を言うとか(大事なときもありますけど)、こう日本人の本当の心の部分では根付いてないと思うんです。なんというか婉曲的な言い回しの中に相手の心理を見るみたいなところがやっぱりあるでしょう。

 

 どんなときでも正しいことは伝わるし、そこには上下関係なく、正しいことは声高く叫ぶのだ、というのは間違いだと思います(正しさってその時代、環境、イデオロギーによって本当にまったく異なりますし。それに、張良は正論を吐かなかったために、奥義を伝授されました)。大切なことは、どんな意見の相違があっても、互いに「レスペクト」と「ディセンシー」をもって接する(心から思っていなくとも、形式上そうふるまって接する)、ということではないでしょうか?たとえ、武道の道を行くものでなくとも、「奥義」は存在するし、それは師から弟子へ、先輩から後輩へ(それがどのような師、先輩であれ)、相伝されいくものなんですよ。

こんにちは。久し振りの更新です。

さて、最近学校で友達とすれ違えば必ずと言っていいほど出る話題があります。「就職活動」の話です。


「駒何個くらいあるん?(駒とは内定をもらえる可能性の残っているエントリー済みの企業を指す就職活動用語みたいなものらしい)」

「誰それに内定が出たらしい。。焦るよなー」

「お祈りメール(企業から送られてくる選考落選のメール)きたー。持ち駒どんどん減っていく。。。」

Etc


私は「就職活動の話」があまり好きではありません。それはこの話が明るい話題として選ばれることが極端に少ないからです。なぜそうなってしまうのか。


以下、内田樹先生の著書「子供は判ってくれない」のまえがきより、抜粋します。

 

 人間が怒るときには、その内面の実態としての堅固な「怒りの感情」が存在する、と人々は信じている。まず「怒りの感情」があり、それが言葉や身振りを通じて「表現」されるのだ、と。

 しかし、ほんとうにそうだろうか。

「まず」怒りの言葉や怒りの身振りをしてみせると、その「あと」になって、自分の中に怒りの感情がわきたつのを感じた、という順逆の転倒を経験したことがあなたにはないだろうか?うっかり口にしてしまった激しい怒りの言葉に「つられて」、怒りの感情が点火し、どうにも止まらなくなってしまったという経験はないだろうか?


 (中略)


 例えば「愛している」という言葉がある。

 私たちはこの言葉をずいぶんと濫用する傾向にある。

 私は若いころ、恋人に向かって「愛している」という言葉をあまりにみだりに口にしている自分の軽薄さを反省したことがあった。そして、思い切って自分の「内面」を覗き込んでみた。いったいどういう心理的根拠があって、私は「愛している」という言葉をこれほど乱発できるのだろうかと調査してみたのである。

 覗き込んだ私の心の中には、「がらん」とした空洞が広がっていた。

なんと、私が習慣的に口にしていた「愛している」という囁きにはまるで心理的根拠がなかったのである(多少の生理的根拠はあったようだが)。


(中略)


そして、気づいたのである。

 私は「愛している」という気持ちを実定的に所有していたがゆえに「愛している」という言葉を口にしたのではない。そうではなくて、「愛している」という言葉を口にすると、私の身体はそれに呼応するように熱くなり、声が優しくなり、気持ちがなごんでくる。それと同時に、彼女の声も優しくなり、目がきらきら輝き始め、肌がなめらかになる。

 私は「愛している」という言葉のもたらすその効果を「愛していた」のである。「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを創造する言葉だったのである。

 ことの順逆が違うようだが、実はこれでよいのである。世の中というのは存外そういうものである。だから恋人たちが飽かず「愛している」「愛している」「愛している」と囁き続けるのは理にかなったふるまいなのである。「もう君がぼくを愛しているのは分かったから、別の話をしない?」というわけにはいかないのである。


抜粋終了


企業のことを「駒」と呼ぶ人は、その言葉を口にしてしまったあとには、もう無意識に企業をただの駒として扱うようになる。私は企業を「駒」と扱う人も、そのように言葉を使う人にも賛同できない。

就職活動について「焦る」「焦る」と言葉にすれば、それにつられて、自分も周囲も心は焦りだす。私は今まで焦って何かをやってよかったと思ったことはこれまで一度もありません。

言葉は、口にするまではそこになかったものを創造する、ことがある。しかし、企業を駒と言ってしまったり、「焦る」「焦る」と周囲にまき散らし、感染させる、負の創造をしてしまうことは、「百害あって一利なし」ではないかと思うのです。

 お久しぶりです。3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」によって甚大な被害を受けられた関係者はもとより、すべての被災者の方々に、衷心よりお見舞い申し上げます。そして、今なお、救助を待っておられる被災地のみなさまの安全と、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 

 またこの事態に、関西学院大学体育会では、阪神淡路大震災の際、多くの方々から支援いただいた大学として何かできることはないかという思いに端を発し、街頭募金活動を中心に支援活動を行って参りました。募金額は総額450万円を超えるものになり、少しでも被災地の復興に役立つのではないかと思っております。今後も、様々な形での支援活動を検討中です。

 上記に関しては、今後も体育会学生本部ホームページ(http://sports.geocities.jp/kghonbu/)に記載していきますので、特にこのブログで詳細を報告することは致しません。

 よろしくお願いします。

 しばらく更新しない間に書きたいことが山のようにたまってきてしまいました。

可能な限りどんどんアップしていきたいと思います。

 

 2月12日、カヌー部の合宿に帯同させていただきました。朝は練習を見学させていただいて、夜は非常に恐縮ながら、部員のみなさんにお話(疑似講演)させていただく時間をいただきました。始めは「10分くらい朝の練習の感想話したら、すぐに帰るから」と言っていたにも関わらず、部員の熱心な質問にも恵まれて、割り当てられていた1時間をフルにお話させていただきました。

 

 その内容は、主に朝の練習で感じたカヌーの競技性、物体が身体と一体化する感覚について話させていただきました。カヌーって難しいですよ!!だって足場は水やし、カヌーに乗ってるし、漕ぐのにオール使うんだから。そういった要因を身体の負荷とするのではなく(敵としてみなすのではなく)、自分自身のものとしないといけない。そこにまで身体を延長させていかなくては、どこかで抵抗を受けてしまう。抵抗を受けた船は早く進まない。ほんとうに素人目からの意見で、なんの説得力もありませんが、とにかく難しい競技やな~と見学してあらためて思うに至ったのです。

 

 また、水泳の経験者はカヌーの上達が早いという話をカヌー部員から聞き、なるほどな~と案を叩いて得心しました。どんなものにも、物には生理があります。物にも、ある状態を心地よいとか不快だとか感じる状態があるということです。水には水の生理があります。水の生理に逆らうことは、それはすなわち、水の抵抗を受けることになり、水上競技においてそれは致命的です。多くの水泳経験者は身体知として、水の生理を理解しています。ですから水の嫌がる体の使い方をしません。そのため、恐らく、カヌーにおいてもオールの水に対する最適な入射角など、水泳未経験者よりスムーズに体得していくのではないか?というのが私の考察です。

 


 滅多にない経験(カヌーの練習を見学することも、学生の身でありながら70名弱の前で1時間疑似講演のようなものをさせて頂いたのも)をさせて頂いたカヌー部のみなさんに、話を持ちかけてくれた岩井さんに、感謝しています。