2026年 8月 19日    水曜日       晴れ      

年に一度の貝塚市公園緑地課とワークショップ開催の日です。

テーマは何にするのか、問題点や関わる人皆さんとの共有等を考えながら、同じテーマにならないように少し高い目標を持ち、意欲が低下しないように公園緑地課と相談します。

 

貝塚市職員3名、貝塚市市役所体験生4名、メンバー会員18名、ノンタングループ1名と子供さん2名の参加です。    

参加者が、出来るかもしれないという意識を持ちながら否定的な話をしないで自分の思いや夢のようなことを出してもらう。

また、今迄せんごくの杜に関わってきたからこそ大切なこと守り続けたいことも出していきます。

                                          

体験生は、ワークショップが始まるまでに職員さんと里山巡りをしてきています。

なのにです。この早朝から暑い中、貝塚市里山交流センターのエアコンがお金を入れても作動しないのです。職員さんが汗しながら一生懸命に見てくれていますが、動かないのでドローンフィルドの所にある研修センターに移動しましょうと職員さんが声をかけてもどなたも移動する様子なしです。開始寸前に作動しました。みんなが動いてる動いてると喜びました。職員さんは「焦りました。熱中症になったらと・・」有難うございました。移動もしなくて良かったです。でも、みなさん大汗でした。「やっぱり、クーラーはいいね!」   

 

足の悪い方は椅子使用にし、他の方は床に座り説明など聞きました。センターの床はウッド仕様なのでとても温もりがあります。

グループワークに入ると体験生の方も自由に話し、いろいろ若い人ならではの話をしてくれました。まとめの発表をお願いするとにこやかに発表してくれました。

職員さんは、各グループに入り同じようにメンバーさんになっています。

一人でも多くそれぞれグループで偏らず、皆さんが話せるようにお互いに声かけあってもらいます。

子供さんの参加は第1回目からありましたので、今回は久しぶりの参加ですが、物置で遊んでいました。それとなく参加者が目を向けているのも良かったのではないかなと思います。

 

なんと最後は「AI」がまとめてくれました。シニアには程遠い「AI」の思いも聞き、皆さんとの思いと変わらないことに笑顔があふれていました。

「AI」についていけないと思いながらも3グループが繋がり楽しい結果になりました。

最後は、お握りを頂いて楽しかったお喋りをして解散しました。

体験生と職員さんは次の予定がありますので市役所に向かいました。

お疲れ様でした。

 

  各グループ共にしてみたいことがいろいろありました。

  手作業でコツコツと関わってきたからこそです。

3グループからの思い  

  「今ある生態系を崩さない、自然を大切に守る」  

  「新しい物を無理に作るより、自分たちが出来ることしながら今のせんごくの杜を活かす」

  「せんごくの杜の魅力である自然を大切にしながら、自然体験などを通じて人が訪れ、関わりたくなる里山にする」

 

貝塚市の「せんごくの杜 里山」について、市役所と、毎年、ワークショップと活動を協働という形式で行っています。

ワークショップは、いつもどのようにしていくのかしたいのか等を職員さんと話すことができて方向性が同じであることが励みになり、出来ることにチャレンジして人が訪れる里山になっています。協働の形がよい形となりボランティアも後期高齢者が多いですが元気で出来ることを楽しんでいます。

多くの人が訪れることから自然が壊れていくことにも繋がります。掲示板が出来ましたので伝え方も貝塚市と一緒にチャレンジしていきたいです。

最近ではA4サイズのお知らせは見えにくいのでA3サイズにしてもらったりしています。

忙しい時間の間に話し合う時間を作っていただいているのは安心して同じ目標にボランティアが出来ることを楽しく出来ます。

メンバーもいいます。話をしていないと知らない間にズレが大きくなっている。これはボランティア活動ではないです。

 

「せんごくの杜 里山」の生態系が守られていくように出来ることを続けて、訪れる方の憩いの場所になるようにしていきたい、コツコツと繋いでいくことが出来れば周りに周知してもらうことができると思います。

新しく会員になられた方も、人の手、みんなの手で出来ることをしている生態系が守られているせんごくの杜が好きで参加しています。

ママさんグループから何も遊具のないせんごくの杜が子育てには一番素敵な場所なんです。泥んこになっていても、虫を興味深く目を輝かせながら捕まえていても、大きい子が小さい子の見守りをしている優しい姿も全部受け入れているのが素晴らしいですし、逞しいです。きっとお母さんが逞しいんですね。

 

里山なのだけど整備された無料駐車場があり、多機能トイレ簡易ベビーベッド付きトイレがあります。里山交流センターを利用された方にトイレ清掃をして頂いているのできれいです。皆さんのトイレですから後の方が気持ちよく使用できるように汚したり壊したりしないように使用して頂きたいです。

市役所のお話ですが、考えられないですが、壊したり修理不可能な状況になった時は何でこんなことをするのだろうと気落ちしますとのことです。

お掃除だけでも汚されていたら何で、どうしてとなります。皆さんのお家と同じです。次の順番があなたでしたらとても不快ですよね。皆さんの公共の物を皆さんで大切に扱いたいですよね。

 

せんごくの杜では、農薬など薬品を使っていません。ナラ枯れの時は、あっという間に里山が茶色になりました。ナラ枯れの原因を知り里山の放置から人が関わる必要性を目の当たりにしました。当時、貝塚市の二色学園の生徒さんにせんごくの杜のドングリを学校で育ててもらって、今は散策路に植樹して育っています。それが里山を元気にする一つの方法です。さともり協議会の方から枯れ木を伐木だけするのでなく、植樹も同時にしていることは里山にとっては大切なことです。素晴らしいといって頂きました。

近いうちに植樹してくれた時の二色学園の後輩生が植樹したドングリを見に来てくれます。楽しみです。     

                                                              

 

 

                                       

 

 

 

                                       

         クーラーが直って開始です。

                                                  

         取り組むまでの情報提供です

                                      

                             

                                      

         説明です

                                     

        発表です

                                    

                            

                                   

        楽しいワークでした

 

                                   

        市内から来られて自然を楽しんでいました

 

 

元国立千石荘病院の跡地、パルタック物流センターの工事が

始まりました。里山の草刈りは何ヶ月もかかるのに、

パルタックさんの広大な敷地のトラックの草刈りは約一日。

凄すぎてビックリです。

         

 

                                   

 

                                  

 

                                 

 

                                                                      

 

 

8月15日 終戦記念日 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

日本戦後81年。戦禍は今でも消えることはないです。

戦後20年、1964年頃には東京オリンピック開催や東海道新幹線開業等「高度経済成長」を迎えていました。ですが、1972年沖縄県なるまでパスポートが必要でした。その中、感染した人の治療を行う為、国立療養所千石荘病院は遠く離れた沖縄からの方を受けていました。故郷を離れて言葉も食事も全てが異なるなれない土地での治療は言葉にならないものでした。

当時、あの血の気のない青白い無表情な顔を忘れることは出来ない。朝、村の人がそっと隠れて売りに来る新鮮な卵を1個購入して栄養をつけている。また、体調も悪くお肉なんて高価で買う事も出来ない、調理も出来ない。唯一、新鮮な卵1個に命を託していたようにみえました。

NHKの朝ドラマの「風、薫る」もう終わりですが、戦後20年位迄、明治時代と同じような状態でした。今では使い捨ての包帯も当時は血液がついているのを洗って広げて干して、乾くと一本一本空いている時間に手巻きにしていました。ガーゼは傷の中に糸が抜け落ちないように端を数本抜き取るのも休憩しながらの仕事でした。

痛くても痛いといえない、痛み止めを貰えない、我慢強いが美談の時代。家族も来ない、治る希望もない、ある人は、毎日、朝夕終わりのないガーゼ交換。

感染の危機は沢山あり、職員の感染も多かった。ある外科医師は手術の件数が超多量件数の上に麻酔薬が患者さん側から漏れている微量を件数の度に吸って副作用が積み重なり、腹部がパンパンに腫れて苦しそうだった。(昔の医療器具は今ほど安全性がなかった)(注射器も一本一本番号合わせだから現在のように使い捨てなんて当時は考えられなかった。薬品によっては量も針も注射器にセットされていて使用すると決められた廃棄容器に廃棄するので感染のリスクがかなり減少しています) 

カーテンもない6人~8人部屋、多くの方が自分という存在を押し殺して戦後も療養所という隔離施設の中で苦しんでいました。