今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『ラウターブルネン村』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂のジャンダルムより厳しく、難しい北穂高の『迫力抜群のゴジラの背を進む麻莉亜』、サンフレ-ガンバ戦でこけら落としが行われた『エディオン・ピースウイング』。そして、『ゼラニウム ピンク、白、赤』です。いろとりどりとても可愛い花ではあります。

 

全席完売という素晴らしいスタートを切ったピースタですが、入場券の発売方法に一工夫いります。転売目的で多く購入した輩のせいで、一般のファンがチケットの入手が困難になっています。私は開幕戦、浦和との試合の入場券を会員前売りをネットで買いまいした。発売前にネット売り場に入ると、待機室に入れられ、12時になるとアトランダムに購入順番が決まります。

 

私の場合、2200番目。待つこと15分。購入場面に切り替わりました。が、なんと、ほぼ全量売り切れ。唯一ホーム応援自由席が残っていたのでこれをゲット。どうしてこうなるのか、と考えたら、1人当たりの購入枚数が6枚までとなっており、多くの人、またダフ屋が仕入れて、ネットで転売しています。

 

《チケジャム》

  バックスタンド車椅子席   2枚/12,000

  バックスタンド1層目     1枚/7,000円

  サポーターズシート指定席  2枚/20,000円

  バックスタンド2層目指定席  1枚/22,000円

  ビジターシート自由席    4枚/34,800円

  成約済み          2枚/12,000円

  成約済み北コーナーシート  2枚/13,000円

  成約済みカテゴリー2    1枚/14,500円

 

まだまだ相当数の売りチケットがあります。売却済みも多くって。転売防止策をしっかり練ってほしいですねえ、サンフレには。転売禁止にして、転売されたチケットでは入場出来ないようにすればいいのだけどなあ。ITの時代、簡単だと思うねえ。転売履歴がチケットに組み込まれればいいのだ。IT技術では簡単なはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■『では申し上げます。お偉い方といえば、よくおみえになるのが安藤さま、山根さま、それから岡安さま』

『ほほう』

安藤と山根は組頭の安藤市兵衛と山根備中だろう。

『岡安は郡奉行の方かの。それとも番頭の岡安茂太夫どのか』

『番頭さまです』

 

おひでは聞かれて答えているものの、やはり気がさすのか小声になっている。そなたも飲めと言って、清左衛門はおひでに盃をさした。

『ほかに時どき、安富さまがみえられます』

おひではきれいに盃をあけると、盃洗で盃をすすいで清左衛門に返した。

 

『安富忠兵衛どのだな』

『はい。安富さまは大ていはご家老の朝田さまとご一緒に参られます』

『ほほう』

 

清左衛門は軽い衝撃を受けていた。ここ30年ほどの間、藩政を左右して来たのは遠藤、朝田の2派閥だった。先代の朝田弓之助が藩政の経営に行き詰まって政権を投げ出した後、遠藤治郎助が筆頭家老の職につき、その時から、2派の抗争がはじまったと言われているが、経過から言えば遠藤派の圧勝だった。

 

初代の遠藤治郎助は、10年藩内を静謐におさめた後で、政権を家老山村喜兵衛の嫡男万之丞に譲った。しかしこの人事については藩内に、山村万之丞は隠居した治郎助の傀儡で、2代目遠藤治郎助が家老に就任するまでのつなぎにすぎないという声があった。

 

そして事実、山村万之丞は4年筆頭家老の席に座っただけで、2代目遠藤治郎助が執政入りした翌年には、その地位を若い治郎助に譲っている。

 

■■<ドムドムフード藤崎忍社長⑤『居酒屋「そらき」を開店、大繁盛』>藤崎は、朝8時から夜10時まで、休みなく出勤した。誰かに言われたわけではない。休むのが不安だったのだ。

 

一方で、朝食や弁当づくりなど、夫や家族の世話もしていたため大忙しとなった。現在、墨田区議会議員を務める1人息子の剛暉(33)は子供の頃から野球をしていた。中高時代のこんなエピソードをよく覚えている。

 

『母も忙しいのでユニフォームは自分で洗濯しちたんですが、ある時、あまりに疲れて干せなかった。それで、母に干しておいてと伝えたんですが、母も疲れて濡れたまま、すかさず手渡されたのがハンガーでした。授業中、教室のベランダにユニフォームを干しました(笑)』

 

09年、夫は2度目の都議会議員選挙に挑もうとしていた。ところが直前に脳梗塞に見舞われてしまう。左半身が不自由に。墨田区役所で1千人以上を招いての決起集会。剛暉の押す車椅子で現れた夫は、出馬断念を報告する。そして藤崎の仕事には、夫の介護が加わった。

 

さらに翌年思わぬ事態が起こる。109のショップは経営状況が良くなり将来の道筋も見えたので血縁者に継がせたいと言われてしまったのだ。藤崎は新たな仕事を探さねばならなくなった。

 

仕事を失った藤崎が真っ先に考えたのは、自分に何が出来るか、だった。浮かんだのは、料理。子供の頃から数十人もの料理を作ったりした。好きだったし、得意でもあった。ひとまず飲食のアルバイトをすることにした。思いついたのは『賑やかで商売が盛ん、社会人が多くて治安が比較的良さそうな街』新橋。

 

駅でラックに入ったアルバイト情報雑誌を見て、1軒目に行った居酒屋に決めた。接客をしながら調理もする役割だったが、空いたお皿にすぐ気付く気配りなどが評価されたのか、すぐに常連客がついた。その後、自分で居酒屋を開くことを決意する。

 

『アルバイトで働き始めたら、けっこう楽しかったんです。しかも、店の斜め前の店舗スペースが突然、空いた。神の思召しだと思いました』

 

こうして開店したのが、居酒屋『空キ』。卵焼きなどの得意料理に改良を加えて看板料理に。すべてをレシピ化し、味を安定させた。ちょうどSNSが流行り始めた頃。学生時代の友人達がお店の情報をシェアし、すぐに繁盛店に。平均売り上げは当初予想の2倍を超え、1年経らずに予約必須の店となった。

 

■■<交遊抄『情熱のスワヒリ語』>人生の師に出会ったのは、大坂外国語大学大学院スワヒリ語専攻の修士1年だった1990年。アフリカ・タンザニア人で言語学者のサイド・アフメド・モハメド先生の授業は情熱が溢れていた。

 

長編小説や詩、児童書の著名な作家でもある。語学にとどまらず文学論を展開する講義は、教職を目指す上での指針となった。

 

例年11月に行う伝統行事『語劇祭』が懐かしい。外国語を学ぶ学生が専攻する言語を使って行う劇で、演目を相談すると、未発表の戯曲を提供してくれた。先生の協力ものと、1泊2日の合宿を経て臨んだ本番は大好評だった。

 

ドイツの大学に赴任後も交流は続いた。2003年の来日時、シンポジウムで先生の通訳を務めたが、当時、子育てなどで慌ただしく、スワヒリ語を話す機会が減っていた。『下手になったんじゃないか』との指摘に背筋が伸びた。

 

現在、母国に戻り、穏やかな余生を送る。言葉の使い方の実情などを確かめるため、毎年のように現地を訪れると『娘なんだから』と自宅に泊めてくれる。

 

『著作を和訳してほしい。君になら任せられる』。26年前、日本を離れる際に頼まれた約束を果たしたい。(竹村景子大阪大学外国語部長)

 

 

◆『スワヒリ語』の専攻とは、また変わっているねえ。でも、それが縁でアフリカに繋がる糸があるのだから、また素晴らしい。

 

■■<『麻生太郎の発言、上川陽子外相の心うちは?』>麻生太郎元首相の女性差別的な発言が物議を醸した。上川陽子外相について『外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約取ちゃう』など、手腕を評価する一方、『このおばさん』『そんなに美しい方とは言わんけれども』などと侮辱的な発言をした。

 

これに対し、上川外相は『様々なご意見があると承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている』と述べた。その後、麻生元首相は発言を撤回した。

 

上川外相が、なぜすぐに麻生元首相に抗議しなかったのか、という見方もあるが、実力者である麻生元首相に正面きって反論すれば、問題はさらに広がり、政界での上川外相の立場が悪くなる事態を招いたかも知れない。だから、上川外相も内心は言いたいことがあったはずだと思うが、腹に納めたのではないだろうか。私は、上川外相の態度に懐の深さも感じ、好感を持った。

 

韓国には『行く言葉が美しければ、来る言葉も美しい』という諺がある。『発する言葉が美しければ、返ってくる言葉もまた美しくなる』という意味だ。節度ある、美しい言葉の使い手になりたいものだ。(山口 男性67)

 

◆世界の年功序列の権化のような麻生太郎。日本の政治家リーダーは年寄りばかりだ。これでデジタル革新をと言っても、チンプンカンプンだろう。台湾のITの成功は、30代の若手に権限を委ねた結果だ。年功序列廃止、ジョブ型雇用の推進・・・、官庁、政界からまずやってみてもらいたいねえ、本当に。